YAGOPIN雑録

東海道徒歩の旅

千本松

● 佐屋街道・2

佐屋宿~桑名宿

 名古屋に宿泊した翌2003年12月27日。名鉄尾西線の3両編成の展望特急列車にはわずか3人しか乗っていなかった。10時前に終点・佐屋駅に到着。県道佐屋多度線を西へと歩き始める。天気はまずまず。

 昨日で佐屋街道は歩き終わったが、東京から京都・大阪まで足跡をつなげるため、今日は最後に残った佐屋宿から桑名宿まで歩くことにする。国道155号を横断すると海部郡立田村に入る。佐屋から桑名に向かう旅人を乗せた三里の渡しの舟は、かつてこの町村界を流れていた佐屋川を下っていた。三里の渡しの航路に忠実に歩くのであれば、ここから南に向かうべきなのだろうが、後述する油島千本松締切堤を見たいと思ったので、まっすぐ西へ歩き続ける。見渡す限り田んぼばかりで、このままでは食事が取れないのではないかと心配になるころ、かろうじてコンビニが1軒あるのを見つける。県道は立田大橋で木曽川を渡る。川幅は約600m。続いて長良川大橋で長良川を渡る。川幅は約400m。長良川が県境となっており、岐阜県海津郡海津町に入った。

 2本の大河を渡った先には国営木曽三川公園の展望タワーがそびえている。木曽三川公園は、木曽川・長良川・揖斐川沿いに点在する船頭平河川公園、長良川サービスセンター、河川環境楽園木曽川水園、アクアワールド水郷パークセンター、ワイルドネイチャープラザ、カルチャービレッジ、138タワーパーク、東海広場、かさだ広場、木曽三川公園センターの10の公園の総称である。展望タワーはこのうち木曽三川公園センターの中にある施設だが、12月26日から30日までは公園休園日ということで中に入れなかった。広々とした木曽三川と濃尾平野を高い所から一望したいと思っていたので、とても残念である。

名鉄の展望特急
名鉄の展望特急
木曽川の向こうに展望タワー
木曽川の向こうに展望タワー

 木曽三川公園センターの南には薩摩藩士・平田靱負(ゆきえ)を祭神とする治水神社がある。江戸時代、木曽三川はまだ完全に分離しておらず、東から西へ木曽川・長良川・揖斐川の順に河床が低くなっていた上に、1609(慶長14)年には名古屋城下を洪水から護る目的で東側だけ御囲堤という高い堤防が築かれた。そのため洪水が起こると水は木曽川から長良川、長良川から揖斐川、揖斐川へと流れ込み、揖斐川の西側にある美濃の村々に大きな被害を起こしていた。この水害の防止については、紀州流河川技術の大家でもある美濃郡代・伊沢弥惣兵衛為永が木曽三川を堤防で分離することを提案しており、1753(宝暦3)年、幕府はこの案に基づく工事の実施を決定。美濃から遠く離れた薩摩藩主・島津重年に対してお手伝い普請が命じられた。

 この「宝暦治水」に従事した藩士はおよそ950名(現地で雇った人夫を含めると約2,000名)、かかった費用は約40万両という。お手伝い普請は、幕府が外様藩の力をそぐために実施するという意味合いもあり、幕府は薩摩藩への食事を一汁一菜に限るよう近隣の村々へ通達したり、建設途中の堤を破壊するなど度重なる嫌がらせを行った。さらに過酷な工事の中、工事関係者の間に赤痢が発生。幕府への抗議のために自刃する者51名、病没する者33名を数えた。工事の完成は開始から1年余りたった1755年。工事の総奉行であった平田靱負は藩主への報告書をしたためた後、多大な犠牲を出したことへの責任をとり、切腹して52歳の生涯を閉じた。平田靱負以下この工事のために亡くなった85名の薩摩藩士を世に「薩摩義士」と呼び、治水神社の裏手に像が建つ。また、薩摩義士を題材に「孤愁の岸」という小説も書かれており、神社境内には今年6月に名古屋の御園座で上演される舞台「孤愁の岸」のチラシが置いてあった。平田靱負役は古谷一行が演じるらしい。

 一の手から四の手まで4区画に分けて行われた工事の中で、三の手の大榑川洗堰工事と並び最大の難工事であったのが、木曽川・長良川と揖斐川を分離する四の手の油島締切堤建設工事である。現在治水神社がある場所から南側に築かれたこの堤防は、石を満載したボロ舟を現場まで漕いで行き、舟を沈めて人間は泳いで戻るという危険な方法で建設された。完成後の油島締切堤には薩摩藩から取り寄せた日向松が植えられ、現在は油島千本松締切堤として国の史跡に指定されている。治水神社の鳥居の向こうに続く立派な千本松の中を歩いていく。鹿児島県と岐阜県は薩摩義士の縁で1971(昭和46)年に姉妹県盟約を結んでおり、松食い虫の被害を受けている千本松の維持のため、最近、鹿児島県からクロマツの苗木の提供が行われたそうだ。右手には揖斐川、左手には車道の向こうに長良川が流れる。1km以上歩いて千本松が途切れるところに「宝暦治水碑」が建っていた。この碑が建てられたのは1900(明治33)年。この頃、明治政府はオランダ人ヨハネス=デ=レーケの指導による木曽三川分流工事を行っており、「宝暦治水」に続くこの「明治改修」により、木曽三川の水害は大幅に減少することとなった。「宝暦治水碑」の先には明治改修を顕彰する「近代治水百年記念碑」も建つ。

薩摩義士像
薩摩義士像
平田靱負とデ=レーケ
平田靱負とデ=レーケ

 ここでちょっと休憩をとる。コンビニで買い込んだおにぎりの包みを開くと、どこからやってきたのか、ニワトリが一羽、こちらに近寄ってきた。この先もずっと揖斐川と長良川の間を歩いていくつもりだったが、ここで歩道が途切れ、歩くのが危険な様子だったので、やむなく治水神社まで引き返す。油島大橋を渡って木曽三川最後の揖斐川を渡る。揖斐川が岐阜・三重の県境となっており、三重県桑名郡多度町に入る。ここから先は揖斐川の堤防をずっと歩いていくことにする。一時、雪がちらついたが、再び晴れてきた。揖斐川の対岸に先ほど歩いた油島千本松締切堤、反対側には養老山地。多度大社に関係すると思われる白い大きな鳥居が山のふもとに見える。ヘリポートや水防資材置場などが堤防近くにある。かつて木曽三川沿いの村々は堤防で囲まれた「輪中」という形態をとることによって水害を防いできた。輪中内の集落には水屋と呼ばれる避難小屋を建てる家もあったが、水害が減少した今も水屋の名残と思われる建物が見られる。

千本松と揖斐川
千本松と揖斐川
なぜかニワトリ?
なぜかニワトリ?

 桑名市に入り、東名阪自動車道の揖斐・長良川橋をくぐる。油島大橋から堤防の上を1時間以上歩いているが、ここまで揖斐川には水管橋を除いて橋は1本もなかった。はるか遠くに名古屋駅ビルの「タワーズ」が見える。JR関西本線、近鉄名古屋線をくぐり、国道1号の伊勢大橋のたもとに出る。現在の伊勢大橋は古めかしい連続アーチ橋だが、架け替えが予定されているそうだ。巨大なロボットがずらっと並んだような長良川河口堰がその先に見える。

六華苑洋館
六華苑洋館

 右手に4階建ての塔屋を持つ空色の洋館が見えてきた。1913(大正2)年、山林王と呼ばれた二代目諸戸清六の邸宅として竣工したもので、現在は桑名市が所有、「六華苑」として一般に公開している。設計者は英国人ジョサイア=コンドル。東京駅・日本銀行本店を設計した辰野金吾や迎賓館を設計した片山東熊らを育て、日本近代建築の父と崇められている。コンドルの遺作はニコライ堂、旧古河家、旧司法修習所、三菱開東閣、綱町三井倶楽部など東京に幾つか残っているが、東京以外にあるのはこの六華苑洋館のみである。洋館の1階には客間があり、2階には居間と書斎、そしてサンルームが設けられている。大きなガラス窓に囲まれたサンルームは真冬の今日でもとても暖かい。立入禁止となっている塔屋はもともと3階建てとする計画だったのを、川の眺めが楽しめるよう4階建てに改めたのだそうである。洋館の隣には和館が建っており両者は1階・2階でそれぞれ接続されている。この洋館・和館はともに1997(平成9)年に国の重要文化財に登録された。館の前には池泉回遊式庭園。敷地の中にはそのほか、美濃高須藩の御殿を移築した建物や蔵など数多くの建物が建つ。

 六華苑を出て再び堤防に戻ると住吉神社の向こうに桑名城の蟠龍櫓が見えてきた。歌川広重の浮世絵「桑名 七里渡口」にも描かれているこの櫓は、最近復元されたもので内部は実は水門の管理所になっている。14時過ぎ、櫓の手前にある七里の渡しの渡船場跡に到着。これで東京から京都・大阪まで僕の足跡がつながった。

桑名 七里渡口
歌川広重「桑名 七里渡口」
桑名城蟠龍櫓
桑名城蟠龍櫓

【完】

※歌川広重「東海道五十三次 桑名 七里渡口」は、東京国立博物館研究情報アーカイブズ(https://webarchives.tnm.jp/)のデータを加工の上で掲載した。

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