YAGOPIN雑録

東海道徒歩の旅

千本松

● 佐屋街道・1

宮宿~佐屋宿

 1999年9月に東京・日本橋から東海道を歩き始め、2003年6月に京都、そして同年10月には大阪に到着した。

 しかし、旅を終えた後、ひとつ気にかかっていたことがある。それは東海道の全区間を歩いたといっても、東京から京都・大阪の間に1箇所だけ歩いていない区間が残っていることだった。その1箇所とは、尾張国・宮宿(名古屋市)から伊勢国・桑名宿(三重県桑名市)までの間、すなわち江戸時代の人が「七里の渡し」と呼ばれる渡し舟に乗っていた区間である。当時、舟で渡っていた場所は、現在、ほとんど埋立てられて陸地になっており、歩くことができなかったわけではないのだが、2002年の9月にこの区間を通過したときは、埋立地で見どころが乏しいという理由により、バスに乗ってあっさりと行き過ぎてしまっていたのであった。

 1623(元和9)年、20歳の徳川家光は将軍宣下のため、東海道を下って京都に向かった。しかし、生まれながらの将軍・家光は、この七里の渡しで、ひどい船酔いに苦しめられてしまう。初代尾張藩主・徳川義直は甥にあたる将軍の通行を容易にするため、名古屋から津島神社に向かう津島街道に手を加え、佐屋に至る延長6里(約24km)の佐屋街道を整備した。佐屋からであれば桑名まで佐屋川・木曽川を通る三里の渡しで済む。家光は1626(寛永3)年、1634(寛永11)年と3回の上洛を果たしているが、2回目の上洛の帰り道から佐屋街道を使ったという。かくして1666(寛文6)年、佐屋街道は東海道の脇往還として五街道を管理する道中奉行の管轄に入り、岩塚・万場・神守(かもり)・佐屋の4宿が置かれた。各宿場には東海道の半分の50人の人足、50匹の馬が常備されることと決められたが、この数量は中山道と同じであり、日光・奥州・甲州の各街道の倍にあたる。西国大名の多くも参勤交代の際に佐屋街道を用いていた。

 宮から桑名への道筋はこの佐屋街道を通ってみようと思う。冬晴れの2003年12月26日、名鉄神宮前駅に到着した僕は、まず道中安全の祈願のため、前回の東海道の旅以来1年3ヶ月ぶりに熱田神宮へと参詣したのであった。熱田神宮から南に下ると宮の渡し場に至るが、今回は国道19号伏見通りを北に向かって歩いていく。この通りは戦災復興の土地区画整理で拡幅された道路のひとつであり、片側5車線もある広い道である。この通りを挟んで熱田神宮の反対側にある誓願寺の前に「右大将頼朝公誕生舊地」という石碑がある。鎌倉幕府を開いた源頼朝は1147(久安3)年、源義朝と熱田神宮大宮司の娘・由良御前の間に生まれている。頼朝はこの地にあった由良御前の実家・熱田大宮司館で生まれており、頼朝はすなわち名古屋出身だったということになる。織田信長や豊臣秀吉が名古屋生まれというのはよく知られているが、源頼朝もそうだったとはちょっと意外である。

 地下鉄4号線神宮西駅を過ぎてさらに行くと、熱田神宮公園の中にヤマトタケルノミコトの妻・ミヤズヒメノミコトの墓と伝えられる断夫山古墳がある。水のない堀に囲まれ、鬱蒼と木の茂った全長151m、高さ16mの小山。日本最大の仁徳天皇陵は全長486m、高さ35mあるから、それに比べれば3分の1ほどの大きさしかないが、東海地方最大の前方後円墳である。「断夫山」の名は、ヤマトタケルノミコトの死後、ミヤズヒメノミコトが再婚しなかったことから付けられたものである。ヤマトタケルノミコトは、ミヤズヒメノミコトに草薙剣を預け、素手で伊吹山の神を退治しようとして帰らぬ人となった。残された草薙剣を祀って創建されたのが熱田神宮であり、断夫山古墳の近くにはヤマトタケルノミコトの墓と伝えられる白鳥古墳もある。しかし、『古事記』によれば、ヤマトタケルノミコトは能煩野(のぼの)で崩御し、そこに御陵を造ったところ、ミコトの魂は白鳥になって飛び立ち、志幾(しき)に留まったため、志幾に改めて御陵を造ったとある。この記述に基づき、「能煩野」とされる三重県鈴鹿市と「志幾」とされる大阪府羽曳野市にある古墳がヤマトタケルノミコトの御陵ということになっている。熱田にある白鳥古墳、断夫山古墳とも、造られたのは5世紀から6世紀ごろと推定されており、ヤマトタケルノミコトの時代に比べずっと遅いことから、実際にはこの地方の豪族・尾張氏の墓なのであろうと考えられている。

頼朝誕生地
頼朝誕生地
断夫山古墳
断夫山古墳

 左手には名古屋国際会議場の建物が見え隠れする。地下鉄西高蔵駅を通ってJR・名鉄・地下鉄が集まる金山総合駅方面へ向かう。名古屋ボストン美術館や名古屋都市センター、ホテルグランコートが入る金山南ビルが行く手に現れる。その手前、歩道の放置自転車に埋もれるように1本の道標が立っていた。「東 右なこや木曽海道 南 左さや海道つしま道 西 右宮海道 左なこや道 北 文政四年巳年六月 佐屋旅籠屋中」。ここをまっすぐに行くと名古屋を経て中山道垂井宿に至る美濃街道(美濃路)、左に折れる片側1車線の通りが、これから僕の歩いていく佐屋街道である。左折すると緩い下り坂になり、尾頭橋で堀川を渡る。堀川は名古屋城下町の開発のため、宮から名古屋まで掘られた運河である。堀川に架かる朝日橋・五条橋・中橋・伝馬橋・納屋橋・日置橋の6本の橋に、佐屋街道の建設に伴い新設されたこの尾頭橋を加えて「堀川七橋」という。

金山南ビル
金山南ビル
佐屋街道道標
佐屋街道道標

 東海道新幹線と臨港貨物線をくぐった先の唯念寺に「津島街道 一里塚」の碑が立つ。その手前の脇道を右に折れると、1996(平成8)年まで中日ドラゴンズの本拠地だったナゴヤ球場が真正面に見える。翌1997(平成9)年にドラゴンズがナゴヤドームに移ってからも、練習場及びファームの本拠地としてドラゴンズが使用しており、グラウンドもナゴヤドームに合わせ、両翼100m、中堅122mに拡張されているそうだ。街道に戻ると、南側には五女子(ごにょうし)町・二女子町・四女子町という変わった地名がある。昔の小字名には一女子・三女子・六女子・七女子もあるという。この地の長者が七人の娘を嫁がせた村の名前を順に一女子、二女子、としたという説や潮新田という新田を七つに分け、一潮、二潮、と呼んだのが訛ったという説などがある。中川福祉会館の前に「佐屋街道」の碑、その先には「明治天皇御駐蹕之所」の碑が立つ。

 少し曇ってきた。中川運河を長良橋で渡って、どことなく下町っぽい通りをさらにまっすぐ進み、建設中の名古屋臨海高速鉄道あおなみ線、JR関西本線、近鉄名古屋線の高架橋を相次いでくぐる。JRと近鉄は近鉄黄金駅付近から庄内川まで連続立体交差化工事が行われており、近鉄線の名古屋方面行きの線路はまだ高架線になっていないため踏切を渡る。烏森(かすもり)郵便局の手前で名古屋城下からやってくる柳街道と合流し、地下鉄東山線が地下を走る豊国通りを横断すると岩塚宿に着く。古い家並もわずかに残るが、あまり宿場町だとは感じられない。ちょうど昼休みの時間になり、近くに三菱重工の大きな工場などもあるため、作業服のジャンパーを羽織ったサラリーマンや会社の制服を着たOLの姿をちらほらと見かける。岩塚城の跡地だという遍慶寺と尾張三大奇祭の一つ「きねこさ祭」が行われる七所社へ寄り道。きねこさ祭りは旧暦1月17日に行われる祭りで、庄内川の中に竹を立て、人が登って倒れた方向により吉凶を占うというものだそうだ。この先、佐屋街道は万場の渡しで庄内川を渡っていたが、今は少し上流に万場大橋が架かっている。頭上には名古屋都市高速5号万場線が通る。庄内川はこの先の新川とともに2000(平成12)年9月の東海豪雨によって破堤氾濫し、流域に大きな被害を与えたため、河川激甚災害対策特別緊急事業(激特事業)というものものしい名称の事業により堤防の強化や河道の掘削工事が行われているところである。そういえば僕も東海豪雨のときにたまたま旅行をしており、庄内川・新川の氾濫によって交通が麻痺したため、帰り道に困ったことがあった。

ナゴヤ球場
ナゴヤ球場
万場の渡し付近の庄内川
万場の渡し付近の庄内川

 庄内川を渡ると万場宿に着く。岩塚宿と万場宿の間には庄内川が流れているだけであり、幕府はこの両宿を一つの宿場として扱っていた。万場宿の成立は1634(寛永11)年、岩塚宿の成立は2年遅れの1636(寛永13)年である。昼食代わりにコンビニで食料を調達。万場宿に入ると、今までの街並みに比べて家々の間隔がやや開き、生垣が多くなったためか、なんとなく名古屋の市街地を抜けて郊外部に入ったという感じがする。覚王院、国玉神社、光円寺と3つの寺社を過ぎる。街道は右に曲がり、都市高速をくぐった先で海部郡大治町に入る。新川にかかる砂子橋は架け替え工事中だった。新川は庄内川の洪水の被害を軽減するため、1784(天明4)年から1787(天明7)年にかけて開削された人工の川である。

 新川を渡ると右に折れ、さらに高札場跡を左に曲がり、名古屋第二外環状道路とその上に架かる東名阪自動車道を越え、千音寺一里塚の標柱を見る。田畑がところどころに現れ、一時的に名古屋市に戻り再び海部郡大治町。左に曲がり、交通量の多い三叉路から県道名古屋津島線に入る。福田川を越えると海部郡七宝町。「Shoppoyaki Toshima七寶焼原産地 寶村ノ内遠島」と書かれた道標がある。傍らに七宝町教育委員会が建てた説明板があり、「七宝焼(尾張七宝)は、江戸時代末に服部村(現名古屋市中川区富田町)の梶常吉により創始され、七宝町の町名の由来ともなっている。七宝町においては、当時の遠島村の林庄五郎が、梶佐太郎より技法を伝授され、その後、遠島村を中心として広まった。この道標は、明治二十八年に建てられたもので、碑の上部にローマ字で”Shippoyaki Toshima”とある。明治時代には、七宝焼は輸出の花形であったこと、外国人が直接買いつけに来ていたことなどから、このようなローマ字の道標が建てられたといえる。」と書かれている。かつての遠島村にある七宝焼起源碑を見るためには、往復で1.5kmほど歩かなくてはならないのでパスする。ちなみに七宝焼の七宝とは、仏典にある七つの宝物「金・銀・瑠璃・しゃこ(しゃこ貝)・瑪瑙・真珠・まいえ(中国産の赤い宝石)」を指すのだそうである。

 道はまっすぐ続いている。片側一車線。それほど広い道ではないが、県道であり交通量が多い。蟹江川を渡り津島市に入る。田んぼが多くなる。西尾張中央道という幹線道路を越えた右手に佐屋街道で唯一現存する神守一里塚があるが、土盛りの上に椋の木が植わっているだけで、原型はだいぶ損なわれている。この先が1647(正保4)年に新設された神守宿。この宿場は下町・中町・上町の3つの町に分かれており、県道に沿う下町から右へ折れると中町、さらに憶感(おっかん)神社の前を左に折れると上町に続いている。古い家も混じる宿場町を過ぎて再び県道に戻り、日光川を渡る。海部郡佐織町と津島市の境界付近を進み、津島市役所付近で一本南の細い道に入る。「左 さやみち 右 つしま天王みち」と書かれた道標があり、その先、道の両側に常夜灯が立っている。かつては津島神社の一の鳥居も常夜灯の後ろに立っていたが、1959(昭和34)年の伊勢湾台風で倒壊してしまい、今は根元の部分しか残っていない。

七宝焼原産地道標
七宝焼原産地道標
神守一里塚
神守一里塚
神守宿
神守宿
常夜灯と残った鳥居の根元部分
常夜灯と残った鳥居の根元部分

 牛頭(ごず)天王(スサノオノミコトと同一の神とされる。)を祭神とする津島神社は、織田信長なども篤く信仰した由緒ある神社である。ここ埋田(うめだ)の追分をまっすぐに進むのがその津島神社に至る津島街道。津島街道にはこの街道のほか、美濃街道新川橋から分かれ、甚目寺・美和・勝幡を経て津島に至る道筋もあり、前者を下街道、後者を上街道と呼ぶ。佐屋街道はここを左に曲がらなければならないのだが、往時の街道は完全に消滅しており、道があったはずの場所には民家が建っている。しかたないので、まっすぐ津島街道を歩き、次の交差点を左に曲がる。津島市民病院の脇を過ぎ、愛宕神社を回りこむ横道を進む。道に迷いながら海部郡佐屋町に入り、保育園の先で広い道を右へ。田んぼの中を走る名鉄尾西線の踏切を渡り、四つ角を左へ。「佐屋海道址」の石碑を過ぎて1kmほど南に進み、右に曲がると佐屋宿に着く。

 「くひな塚 是より南二丁」の道標に従い、水鶏(くいな)塚を見に行く。

「元禄七年芭蕉翁が江戸から故郷伊賀の国へ帰る途中、佐屋御殿番役の山田庄左衛門氏の亭で泊まられた。そのあたりは非常に閑静な幽地で昼さえ藪のほとりで木の間がくれに水鶏(くひな)が鳴いた。翁がこられたと聞いて遠方からも俳人集り千載不易の高吟が続いた。そのときうたわれた初の句が

水鶏鳴と人の云へばや佐屋泊

である。翁逝って四十余年後さきに坐を共にした人達により、翁がうたったこの現地でそのときうたった句を石にきざみこの碑がたてられた。とき正に享保二十年五月十二日のことである。」

と説明板にある。芭蕉は佐屋を発った後、故郷伊賀上野から奈良を回り、大坂で病を得てそのまま没しており、この旅が人生最後の旅になってしまった。

 街道に戻る。佐屋街道の終点・佐屋宿は一部に古い家が残るものの、それほど宿場らしさは感じられない。交差点の北側に「佐屋代官所址」の碑、南側に「左 さや舟場道」の道標。「尾張名所図会」の「佐屋駅」の絵を見ると、この地点には高札場らしきものがあり、その後ろの石垣の上に代官所と船番所とおぼしき建物、反対側にはキコク(枳殻・カラタチ)の生垣のある近江屋という旅籠が建っている。街道は堤を上っていき、その先には佐屋川と三里の渡しの舟が描かれている。近江屋のキコクの生垣の名残という生垣がコンクリートの擁壁の上に残っているのを除けば当時の面影は何もない。三里の渡しの舟が通った佐屋川は明治時代の河川改修で姿を消しており、目の前の交差点を車が行き過ぎるばかり。交差点を左に曲がったところに「佐屋三里之渡趾」の碑。佐屋は1615(慶長20)年の大坂夏の陣の際、徳川家康が船出して勝利を得た吉祥の地とされ、徳川時代を通じ渡船場として賑わっていた。しかし徳川の天下が終わり、1872(明治5)年になるとここよりずっと南に新しい東海道(現在の東海通)が開かれ、佐屋街道は東海道の一部としての役割を失ってしまうのである。

水鶏塚
水鶏塚
三里の渡しの碑
三里の渡しの碑

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