YAGOPIN雑録 東海道徒歩の旅
 
 ● 美濃路・0
宮宿〜清洲宿
 

 単身赴任になり、一人、名古屋で過ごす休日が暇なので、昔やっていた街道歩きを再開することにした。江戸時代の東海道は、尾張国の宮宿から七里の渡しまたは佐屋宿から三里の渡しで伊勢湾を渡り、伊勢国から鈴鹿峠を越えて、近江国の草津宿に出ていたが、宮宿から美濃国の垂井宿まで美濃路を通り、さらに中山道を経由して草津宿まで行く方法もあった。久しぶりの街道歩きは、この美濃路を歩き、さらに余裕があれば中山道を草津宿まで歩いてみようかと思う。実は、8年ほど前にも美濃路を歩こうと思ったことがあり、妻と3回に分けて清洲宿まで歩いている。今回は、その続きを歩くことにしたいので、まずは、以前に歩いた清洲宿までの道筋を振り返ってみる。

 第1回目は、2007年9月1日、名古屋の副都心・金山駅からスタートした。駅から少し南、名古屋市熱田区と中区の境界付近の伏見通に、佐屋街道と美濃路の分岐点を示す1821(文政4)年の道標が立っている。佐屋街道と美濃路は、ここより南にある宮宿で東海道から分かれ、この地点でさらに佐屋街道は西へ、美濃路は北へと分かれる。以前、佐屋街道を歩いた時に、宮からここを通って佐屋まで行っているので、この日は、ここから伏見通を北へと向かった。国道19号となっている伏見通りは、戦災復興で片側5車線ある50m道路となっている。東京の八丁堀を思わせる「九丁堀」という交差点を過ぎ、うだつの上がった古めかしいお米屋さんの付近に「美濃路古渡一里塚跡」の小さな木札が立っている。おそらく東海道宮宿の手前にある熱田伝馬町一里塚からここまでが一里だと思われる。その先の古渡町交差点から美濃路は伏見通を離れ、門前町通という片側1車線の通りに入る。江戸時代には、このあたりに橘町の大木戸があり、名古屋城下の入り口となっていた。名古屋の市街地の東・西・南の三方には寺院が集められた寺町があり、この付近は南寺町にあたる。そのため、門前町通の両側には多くの仏壇店が並んでいる。門前町通をちょっと右に折れたところに栄国寺がある。かつて千本松原と呼ばれたこの場所は、江戸初期に多くのキリシタンが処刑された処刑場であり、今も切支丹塚または千人塚と呼ばれる供養塔が残されている。その先には真宗大谷派名古屋別院、通称・東別院の大きな伽藍が建つ。東別院の敷地は、織田信秀の居城だった古渡城の跡地で、織田信長が元服したのもこの場所だった。門前町通を少し北に進んだ左側には、浄土真宗本願寺派名古屋別院、通称・西別院が建っている。西別院では、1817(文化14)年に葛飾北斎が120畳敷の紙に達磨の絵を描くというパフォーマンスを行ったそうだ。西別院は、戦災で南門と鐘楼を残してすべて焼失してしまったため、達磨の絵も今は失われてしまった。1972(昭和47)年に再建された現在の本堂は、東京の築地本願寺を思わせるインド風の建物である。

仏壇店の並ぶ門前町通
仏壇店の並ぶ門前町通
切支丹塚
切支丹塚

 大須交差点を過ぎると門前町通は賑やかな商店街になり、仁王門通りのアーケード街を左に曲がると大須観音こと北野山真福寺宝生院がある。もともと岐阜県羽島市の大須にあったお寺を名古屋城下に移したもので、浅草観音、津観音と並ぶ日本三大観音の一つに数えられる。100m道路の若宮大通を渡ったところには、名古屋の総鎮守である若宮八幡社がある。ここから通りの名前は本町通に変わる。本町通は江戸時代の名古屋の目抜き通りで、広小路との交差点には、名古屋市の道路元標が立っている。広小路は、1660(万治3)年の万治の大火の後、防火のために広げられた大通りだった。広小路を渡った右側には、かつての東海銀行→UFJ銀行の本店、現在の三菱東京UFJ銀行名古屋営業部がある。左側は大和生命ビルの跡地で、その隣には旧名古屋銀行の古いビルを利用した三菱東京UFJ銀行貨幣資料館があった。なお、2016年現在は、貨幣資料館は移転し、大和生命ビルの跡地と一体で再開発が行われている。この日は、ここでおしまいで、名古屋駅前に出て味噌カツを食べて帰ったようだ。

 美濃路歩きの2回目は、次の週末の2007年9月9日。広小路より北側は、南北の通りと東西の筋がおよそ100mおきに交差する整然とした町割りである。江戸時代に商人の町として造られたこの街並みは、碁盤割と呼ばれる。その中でも美濃路となっている本町通は、名古屋城の本町門から碁盤割の町をまっすぐ南北に貫いていて、名古屋の中心をなす大通りだった。いとう呉服店(現在の松坂屋)、十一屋(現在の丸栄)、大丸呉服店などもかつては本町通に店を構えていたようだ。今は広小路通や大津通が名古屋の繁華街となっているため、本町通は繊維商社などが集まる町となっている。錦通、元重町通、袋町通と3本の筋を越えて、伝馬町通との交差点には、江戸時代、人馬の継立てを行う伝馬会所があった。伝馬町通は、東西の筋で一番にぎわっており、東西南北の目抜き通りが交わるこの交差点には、高札場が設けられ、札の辻と呼ばれていた。美濃路は本町通から左折して伝馬町通に入る。このあたりが美濃路で最初の宿場である名古屋宿にあたるが、名古屋宿は、御三家の城下町ということで、本陣・脇本陣や助郷などのない特殊な宿場であったようだ。

江戸時代の札の辻
江戸時代の札の辻
現代の札の辻
現代の札の辻

 日本銀行名古屋支店の裏を通り、伏見通を渡るために少し北にある歩道橋を通る。日銀前の交差点で交通事故があり、車がひっくり返っているのを見かける。その先、堀川に架かる伝馬橋を渡り、名古屋市中区から中村区に入る。福島正則が名古屋城建設のために開削した堀川には、上流から五条橋、中橋、伝馬橋、納屋橋、日置橋、古渡橋、尾頭橋の七つの橋が架かり、堀川七橋と呼ばれていた。伝馬橋の西詰から美濃路は右に曲がって北に向かう。名古屋駅前から続く桜通を横断し、名古屋市西区に入ったあたり、美濃路の一本西の通りは、四間道という街並み保存地区になっている。四間道は、大火の後、防火のため幅員を4間に広げたことからこの名前があり、やはり防火のために建てられた土蔵が残っていたり、屋根の上に屋根神様が祀られた商家があったりする。清洲城下から移されたという五条橋を過ぎ、国道22号を渡ったところでいったん美濃路を外れ、名古屋城に行ってみた。名古屋城には、戦災まで江戸時代の天守閣と本丸御殿が残っていたが、天守閣は鉄筋コンクリートの再建となり、本丸御殿は当時礎石が残るばかりとなっていた。2016年現在、本丸御殿は木造で一部復元され、天守閣も木造での再々建が構想されている。美濃路に戻り、地下鉄浅間町駅でこの日は終わり。

四間道
四間道
本丸御殿跡
本丸御殿跡

 3回目は、2007年も押し迫った2007年12月23日、地下鉄浅間町駅から美濃路を西に向かう。その後2010年に新庁舎に移転したが、当時は押切北の交差点の近くに名古屋市西区役所があった。この場所は、現在の名古屋鉄道となった名岐鉄道のターミナル・押切町駅の跡地である。名古屋の都心からだんだん離れつつある。このあたりの美濃路界隈は職人の町だったそうだ。信長が桶狭間の戦いの際に戦勝祈願をした白山神社の前は、旅人が休む立て場になっていたという。尾州殿茶屋という要人用の接待施設も近くにあったそうだ。屋根神様を見上げながらさらに西へ進む。平清盛によって尾張に流された太政大臣藤原師長ゆかりの清音寺という寺院があり、名古屋鉄道をくぐると、庄内川に出る。枇杷島橋を渡って清須市に入る。枇杷島橋は、名古屋城ができた直後の1622(元和8)年には、すでに架けられていたようだ。庄内川を渡ると、対岸はるかに名古屋駅前の高層ビル群が望めた。

旧西区役所
旧西区役所
枇杷島橋
枇杷島橋

 名古屋市外に出ると、急に街道らしさが増したように感じられる。山車蔵があったり、鐘楼の載った門のあるお寺があったりして、その先には古い町家を移築した問屋記念館がある。このあたりは江戸時代、「下小田井の市」と呼ばれる青物市場が開かれたところだそうだ。ボケ防止にご利益があるという松原神社や、街道沿いに残る木造三階建ての家を過ぎ、千本松原から処刑場が移された土器野を通って、新川橋のたもとに至る。新川は、庄内川の治水のために天明年間に開削された放水路である。しかし、2000(平成12)年の東海豪雨では、新川の堤防が決壊し、このあたりで大きな被害を出したという。川を渡ったところに津島街道との分岐を示す道標や新川橋の古い親柱が保存されている。8年以上前のことで記憶が定かではないが、その先、須ヶ口駅の周辺で昼食をとったと思われる。須ヶ口という地名は、清須の入り口という意味だそうだ。織田信長の居城があったことで有名な「きよす」は「清洲」「清須」の2通りの書き方があり、以前は駅名、インターチェンジなど「清洲」の字が用いられることが多かったが、清洲町が合併で清須市となり、市名は「清須」となった。歴史的には「清須」の方が古い表記であるらしい。

問屋記念館
問屋記念館
新川橋
新川橋

 名鉄津島線の踏切を渡った先に、古渡一里塚、見落とした江川一里塚に続く3つ目の須ヶ口一里塚の跡がある。さらに進んだ正覚寺の前には古い道標があり、境内には今川義元を弔った今川塚がある。「安売党総裁」と書かれた謎の看板がかかる建物があり、丸ノ内駅付近で枡形状に道路が曲がって、県道にいったん合流し、すぐに再び県道から離れる。「清洲城信長鬼ころし」などで知られる清洲桜酒造の前を過ぎて、五条川に架かる五条橋に至る。人口6万人ほどもあった清洲城下町は、名古屋城ができると町ごと名古屋に移転し、「思いがけない名古屋ができて、花の清洲は野となろう」とうたわれた。五条橋も堀川七橋の一つとして名古屋の橋の名前となっている。美濃路歩きは、五条橋でいったん終わりにするが、せっかく清洲まで来たので、清洲城の跡を見ていく。清洲城は、室町時代に尾張国守護斯波氏が守護所を構えたところで、その後、尾張下四郡を支配する織田大和守家の居城となった。やがて尾張国を再統一する織田信長が清洲城の主となり、信長の死後、清洲会議を経て、次男の信雄が清洲城主を継ぎ、その後、豊臣秀次、福島正則、松平忠吉、徳川義直が城主となっている。名古屋城への移転に伴って清洲城は廃城となったが、名古屋城の清洲櫓が清洲城の天守閣を移築したものという説もある。五条川の北側がかつての城跡で、桶狭間の方角を見据えた若き日の信長の銅像が立っている。朱色の橋を渡った五条川の南側には、模擬天守があり、「敦盛」を唄う信長の人形などが飾ってあった。天守前の広場には天守を見上げる濃姫の銅像もある。これらを一通り眺めてから、近くのキリンビールの工場にあるレストランでビールを飲んでこの日は帰宅した。なので、8年ぶりに再開する美濃路歩きは、清洲の五条橋から始めなくてはならない。

今川塚
今川塚
清洲古城趾
清洲古城趾
 
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