YAGOPIN雑録

東海道徒歩の旅

有松

● 三河国~尾張国・3

岡崎宿~池鯉鮒宿

 2002年8月10日。10時30分に愛知環状鉄道中岡崎駅に着いた。転勤があって大阪に引っ越したので、家から出発地までの距離がだいぶ短くなった。さらに、今回からは歩くたびにどんどん家に近づいていくことになる。

八丁味噌の仕込桶
八丁味噌の仕込桶

 何度か来たことのある岡崎城は高架駅のホームから拝むだけにとどめ、前回見ることの出来なかった「八丁味噌の郷・史料館」を見学する。この史料館は、江戸時代初期から続く八丁味噌メーカーの「カクキュー」が、1907(明治40)年築の味噌蔵を改造して1991(平成3)年から公開しているものである。大豆を蒸して丸め、麹を加えて発酵させる行程が人形を使って紹介されている。八丁味噌のように大豆を蒸して作るのが赤味噌。それに対して大豆を煮るのが白味噌であり、赤味噌は白味噌に比べ製造工程で栄養分が逃げにくいのだそうだ。大豆に麹を加えた後、水と塩を足して大きな樽に入れ、上に石を積んで3年ほど寝かせると八丁味噌が完成する。味噌6トンにつき3トンもの石を積むのだが、この石を積む作業が熟練を要し、10年は修行が必要という。職人の積んだ石は樽の中の味噌に均等に力を加え、大地震があったときでも崩れたことはなかったと聞き、何気ないところに受け継がれる伝統の技に感心する。その一方で、樽を倒して6トンの味噌を樽から出す行程などは機械化されていたりする。

岡崎 矢矧之橋
「岡崎 矢矧之橋」
矢作橋と出合之像
矢作橋と出合之像

 蔵の外には味噌がこびり付いたままの大きな樽が並べられている。樽はなかなかの貴重品で、廃業した造り酒屋などから譲り受けたりもしているそうだ。味噌を付着させたままにしておくのは、樽が乾燥しないようにするためと説明される。最後に味噌を付けたコンニャクと、焼き味噌を試食して史料館を出る。荷物になるのでちょっと迷ったが、結局赤味噌の小さいパックをひとつ買ってしまった。前回の終点、矢作橋に至る。矢作川には江戸時代から橋がかかっており、広重の「岡崎 矢矧之橋」もゆるく反った矢作橋の向こうに岡崎城が見える構図となっている。周囲の建物が高くなったため、岡崎城はずっと目立たなくなったが、今も橋を渡った対岸からは似たような景色が望める。また、この矢作橋は後に豊臣秀吉となる日吉丸少年と野武士の蜂須賀小六が出会ったと言われる場所で、橋のたもとには「出合之像」と名づけられた二人の石像が立っている。もっとも、当時の矢作川に橋はかかっていなかったので、この話は作り話の可能性が高いのだが。

 橋を渡って旧道に入るとしばらくして誓願寺十王堂というお堂がある。「寿永三(一一三八)年三月、矢作の里の兼高長者の娘 浄瑠璃姫が源義経を慕うあまり、菅生川に身を投じたので、長者はその遺体を当寺に埋葬し、十王堂を再建して義経と浄瑠璃姫の木造を作り、義経が姫に贈った名笛 薄墨 と姫の鏡を安置した。」と説明書きに記されている。寿永3年は1182年であり、1138年にはまだ義経は生まれていないので、これは書き誤りであろう。また、以前に静岡県の蒲原宿で見た説明書きでは、浄瑠璃姫は源義経を蒲原まで追いかけたが、そこで没したことになっており、ずいぶん話に食い違いがあるようだ(蒲原にも浄瑠璃姫の墓と言われる石塔がある。)。ちなみに「十王」とは冥府で死者を裁く十人の王のことで、初七日に秦広王、27日に初江王、37日に宋帝王、47日に伍官王、57日に有名な閻魔王、67日に変成王、77日に太山府王、百箇日に平等王、一周年に都市王、三周年に五道転輪王の裁きを受けて、やっと死者の来世の生所が決まるのだそうである。

 やがて旧道は国道に合流する。片側2車線の国道1号を大型トラックがたくさん行き交っている。関東地方や札幌、広島といった他県ナンバーのトラックがけっこう多い。不景気の昨今、長距離トラックも高速道路を使わずに一般国道を使うことが多くなったようだ。半年前から歩いている岡崎市をようやく抜けて安城市に入ると、再び旧道が国道から分かれる。安城市は15万人の人口を擁し、新幹線の駅もある都市だが、宿場町でもなく城下町でもなく(ただし、戦国時代には松平氏の城があった。)、もともと何もないところだった。しかし、東海道線の岡崎駅と刈谷駅の中間に新駅を造ることになったとき、両駅のちょうど真ん中にあたる安城に駅が造られたため、その後、駅を中心に発展することとなったのだという。松並木がところどころに現れ街道らしくなってきた。このあたりには、戦時中、海軍の練習航空隊が置かれていたということで「予科練之碑」という碑が立っている。近くには一里塚の跡と、「鎌倉街道跡」の案内板もある。

明治川神社
明治川神社

 永安寺というお寺の境内に、高さは4.5mしかないが幅は24mもある「雲竜の松」という巨木がある。このお寺は1677(延宝5)年に助郷役の免除を直訴して打ち首になった柴田助太夫という庄屋を祀っている。安城市周辺は江戸時代には安城ヶ原という原野であり、豊かな土地ではなかったため、助郷役を受けるのにも困窮していたのだろう。1817(文化14)年には、この荒れた安城ヶ原で新田開発を行おうと、都築弥厚という豪農が矢作川の水を引き入れる用水路の建設を画策している。しかし、事業は農民の理解が得られないままに挫折し、弥厚の下には2万5000両(米換算で今の約9億円という。)の膨大な借金が残った。中断されていた工事が再開されたのは明治時代になってからのことで、ついに用水路の第1次工事が完成したのは1880(明治13)年のことである。用水路は明治用水と名づけられ、東海道沿いには用水路の建設に功績のあった弥厚らを祀る明治川神社が建てられた。そして、明治用水により、安城ヶ原はしだいに水田化され農業の大規模多角化が行われるようになり、安城市は「日本のデンマーク」とまで呼ばれるようになるのである。
明治用水はこの明治川神社の前を流れているが、今は暗渠になり、上部は自転車専用道路となっている。実は5年近く前、豊田市に住んでいたころに自転車でこの道路を走ったことがあり、そのときに明治川神社にも立ち寄っている。このような形で再び訪れることになるとは思わなかった。

 猿渡川を渡ると知立市になる。ここで東海道を外れ、やはり一度来たことのある八橋伝説地を見に行く。

 むかし、おとこありけり、そのおとこ、身をえうなき物に思[ひ]なして、京にはあらじ、あづまの方に住むべき国求めにとて行きけり、もとより友とする人ひとりふたりしていきけり、道知れる人もなくて、まどひいきけり、三河の国、八橋といふ所にいたりぬ、そこを八橋といひけるは、水ゆく河の蜘蛛手なれば、橋を八つわたせるによりてなむ八橋といひける、その沢のほとりの木の蔭に下りゐて、乾飯食ひけり、その沢にかきつばたいとおもしろく咲きたり、それを見て、ある人のいはく、「かきつばたといふ五文字を句の上にすへて、旅の心をよめ」といひければ、よめる、「から衣きつゝなれにしつましあればはるばるきぬる旅をしぞ思[ふ]」とよめりければ、皆人、乾飯のうへに涙おとしてほとびにけり[後略]

 『伊勢物語』第9段の一場面である。在原業平と思われる「おとこ」が、あづまの国を目指し友人とともに漂泊の旅に出る。ここ三河国八橋まで来たときに、かきつばたが美しく咲いているのを見て、か・き・つ・は・たの五文字を織り込んで「ら衣 つゝなれにし ましあれば るばるきぬる びをしぞ思ふ(都に愛しい人を残しているのに、はるばると遠くまで旅をしてきてしまったものだ。)。」と詠むと、一同は乾飯の上に涙を流して乾飯がふやけてしまった。

 当時の東海道、のちの鎌倉街道は、先ほどの「鎌倉街道跡」の案内板のあたりから、江戸時代の東海道よりもやや北に外れたところを通っていく。今は街道の並木の松だったとも言われる「根上がりの松」、在原業平ゆかりの在原寺、業平の遺骨を分骨して埋めたという供養塔などが残る。しかし、肝心の八橋伝説地に行ってみると、八橋のかかっていた逢妻男川の向こうでは衣浦豊田道路という高架道路が建設中であり、以前に来た時に比べてもさらにその面影は失われていた。かきつばたは近くの無量寿寺の庭園で見ることができるが、真夏の今は季節でないので寄っていかない。ちなみに弥次・北は、業平にならってここで歌を詠んでもただ恥をかくばかり、と「八ツはしの古跡をよむもわれわれが およばぬ恥をかきつばたなれ」と詠んだ。しかし歌の中でちゃっかり「かきつばた」を詠み込んでいるのはさすがである。

八橋伝説地
八橋伝説地
無量寿寺のかきつばた(1998年5月10日撮影)
無量寿寺のかきつばた
(1998年5月10日撮影)
池鯉鮒 首夏馬市
「池鯉鮒 首夏馬市」

 立秋は過ぎたが、日差しが強く、ひどい残暑である。来迎寺一里塚を過ぎると東海道は松並木になって少しほっとする。「旧東海道三拾九番目之宿 池鯉鮒 江戸日本橋八拾四里拾七町 京都三條四拾壱里」という石柱が立っている。既に全行程の3分の2を超えた。伊勢物語ではないが、はるばる来ぬる旅をしてきたなあと思う。池鯉鮒宿は木綿市が開かれる場所として知られており、木綿市を詠んだ「はつ雪やちりふの市の銭叺(かます)」という小林一茶の句碑がある。さらにこのあたりの松並木では、木綿輸送に必要な馬を売買するため、毎年4月25日から5月5日まで、400~500頭の馬が出る馬市が行われていた。広重の「池鯉鮒 首夏馬市」ではその馬市の様子が描かれている。しかし現在の東海道は見事な松並木になっているのに、広重の絵の中には広々とした野原が広がるばかり。松は1本しか描かれていないのだから不思議である。「馬市之趾」の碑を見てから国道と名鉄三河線を横断、もうひとつ、宿場の少し北にある慈眼寺の「馬之碑」を見る。馬市は明治以降、場所を変え、この寺の境内で行われていた。なお、かつて慈眼寺のあたりに御手洗池という殺生禁断の池があり、鯉や鮒が多く棲みついていたため、「知立」を「池鯉鮒」と書くようになったのだという。

知立神社多宝塔

 かつて問屋場や本陣のあった宿場の中心部には「リリオ」という大きなホールが建っているが、近くには伝統的な町屋も多く建ち並んでいる。街道は知立古城跡にぶつかって右に折れる。ここを左に向かえば城下町・刈谷。知立古城は桶狭間の戦いで落城したが、その跡地には、江戸時代、刈谷城主が将軍饗応のための御殿を整備したという。地下道で国道155号をくぐると知立神社。無量寿寺のかきつばたに対して、知立神社は菖蒲で有名である。が、こちらもオフシーズンのため、菖蒲田は素通りして1509(永正6)年に建てられた多宝塔を見に行く。木造こけら葺き2層の塔。500年前の建築ということでもちろん重要文化財である。本来、寺院に建てられる多宝塔が神社にあるのは神仏習合によるものだが、明治時代には神仏分離政策によってこの多宝塔にも取り壊しの危機が訪れた。しかし、本尊を他の寺院に移し、てっぺんの相輪を外して「知立文庫」と名前を変え、なんとか取り壊しを免れたのだという。

 知立神社を過ぎて逢妻川を渡り、国道1号に出たところで今回はおしまいにする。わずか1宿場しか歩いていないが、距離は15kmほどあり、だいぶ疲労した。時刻は15時。知立駅からは少し離れてしまったので、知立逢妻町のバス停から名鉄バスに乗った。

※歌川広重「東海道五十三次」は、東京国立博物館研究情報アーカイブズ(https://webarchives.tnm.jp/)のデータを加工の上で掲載した。

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