YAGOPIN雑録 世界あくせく紀行
 
 ● ソウル編・3
 
 

 景福宮から、その東にある昌徳宮(チャンドックン)へ向かって歩いていく。ソウルには、景福宮、昌徳宮、昌慶宮(チャンギョングン)、徳寿宮、慶熙宮(キョンヒグン)の5つの宮殿があり、それぞれに由来があるのだが、景福宮は先述のように日帝時代に総督府庁舎を建てるために一部が撤去され、また、同じころ昌慶宮は動植物園に、慶熙宮は寺院などに用いるために、やはり撤去されている。これらについては近年、復元工事が進められており、やがては朝鮮(チョソン)王朝時代の宮殿がすべてよみがえる予定となっている。

 朝鮮王朝は、1392年に李成桂(イ・ソンゲ)がそれまで朝鮮半島にあった高麗(コリョ)王朝の恭譲王から王位の禅譲を受けて成立した。高麗は「KOREA」の語源となった王朝でもあるが、仏教を重視しすぎ、また元寇により中国の元王朝の影響力が強まったことから、それらに対する反発が起こって王朝の交代を招いてしまった。朝鮮王朝は仏教に代わり儒教を重視し、元に代わった明王朝を宗主国と仰いでおり、「高麗」に代わる「朝鮮」の国号も最終的には明が選択した。「朝鮮」はもともと紀元前に朝鮮半島にあったとされる国の名前に由来する国号であり、この紀元前の国と区別するため李成桂のつくった王朝は一般には「李氏朝鮮」と呼ばれている。高麗の都・開城(ケソン)から「漢城(ハンソン。現在のソウル)」に都を遷したのもこの朝鮮王朝である。

 朝鮮王朝は、日本と中国の間に挟まれ、1392年の成立以来、1592年からの壬辰・丁酉倭乱(豊臣秀吉の朝鮮出兵、文禄・慶長の役)、1627年からの丁卯・丙子胡乱(明に代わった清王朝が朝鮮国王に朝貢をうながすため朝鮮半島に出兵した事件)、1875年の江華島事件(日本が朝鮮に開国を迫った事件)と日朝修好条規締結、それに続く1882年には清国との商民水陸貿易章程締結、と両国からたびたびの圧力を受けていた。そして最終的には日清戦争で清が日本に敗れたことから朝鮮王朝は清の支配から解放され、1897年に「大韓帝国」と改名(それまで「大」「帝」などの文字は中国に遠慮して使えなかった。)。しかし結局1910年には日本に併合されてしまうこととなるのである。もっとも、朝鮮王朝500年間における日朝関係は、室町時代には足利幕府と朝鮮王朝との間で使節の往来があり、徳川幕府との間でも12回にわたる朝鮮通信使の日本派遣があったなど、むしろ悪かった時期のほうが例外であるとも言える。

 壬辰・丁酉倭乱、丙子胡乱の際には、漢城(現在のソウル)も攻撃され、景福宮や昌徳宮などは豊臣秀吉軍によって焼き払われてしまっている。本来の宮殿である景福宮はその後1865年まで再建されずに放置され、離宮であった昌徳宮のほうが再建後270年間にわたり王宮の役目を果たしてきた。また、日帝時代に景福宮にあった建物の一部も昌徳宮に移されており、朝鮮王朝時代の建築物が昌徳宮内によく保存されていることから、昌徳宮は1997年にユネスコの世界文化遺産に登録されている。

昌徳宮のガイドさん さて、歴史の話が長くなったが、我々はいま景福宮から昌徳宮に向けて歩いている。このあたりは朝鮮王朝時代には「北村」と呼ばれ、王族や高級官僚が住んだところらしい。ちょうど近くの女子校のひけ時らしく、歩道は制服を着た女子高生で埋め尽くされている。韓国5大財閥のひとつ・現代財閥のビルの前を通って昌徳宮に至る。ちょうどうまい具合に12時半スタートの日本語ツアーが始まるところだった。入場料を払い、女性のガイドさんについて昌徳宮の正門である敦化門(トンファムン)をくぐる。

 韓国に現存する最古の石橋といわれる錦川橋(クムチョンギョ)を渡り、門を2つ過ぎると正殿である仁政殿(インジョンジョン)の前に出る。緑と赤に彩色された二層の宮殿で内部は吹き抜けとなっており、その中央に国王の座る玉座がある。天井には大きな電灯がとりつけられており、この宮殿がそれほど遠くない過去に実際に用いられていたことを教えてくれる。仁政殿の前は石敷きの広場となっており、国王に仕える人々が身分順に整列するよう「正一品」「正二品」などと刻まれた標石が立てられている。天子が南を向き、その前に臣下が並ぶ広場がある宮殿の構造は、中国の宮殿のつくりと基本的には同じだが、北京の紫禁城の太和殿に比べればもちろんだいぶ小ぶりなものである。しかし、それでも王宮としての威風に欠けることなく、また黒い屋根に赤い柱、緑や金色の彩色が意外に落ち着いた雰囲気を見せていて好ましく思う。ちなみに朝鮮では建物に色をつけることができたのは王宮だけだったという。

仁政殿。広場に標石が立っている。 この宮殿内はガイドさんについて回らないと見学できないので、いま仁政殿前の広場にいるのはガイドさんと10数名の日本人観光客だけである。次から次へどやどやと観光客がやってくることがないために、まったく現代から隔離されてしまったような不思議な感覚にとらわれる。あたりは静まり返っていて、ときおり韓国の国鳥であるカササギがクヮークヮーと聞きなれない鳴き声を発している。突然、時空間がゆがみ、さっきまでここに居並んでいた朝鮮王朝の人々と我々の居場所が入れ替わり、我々が現代の日本から朝鮮王朝時代の仁政殿前に連れ出された。そんなSF的な想像さえ働いてしまう。

 仁政殿の隣には国王が実際に政務を執った宣政殿(ソンジョンジョン)。この建物は屋根瓦に青色をした特別な瓦が用いられている。その先に熙政堂(ヒジョンタン)、さらに大造殿(デジョジョン)。大造殿は国王の寝室として用いられた建物で、屋根の一番高いところにある棟の部分がない不思議な構造をしている。というのは、朝鮮では国王はすなわち竜の化身であり、一方で屋根の棟の部分のことを朝鮮ではやはり「竜」ということから、同じ建物に竜が2匹横たわることのないように、屋根の棟の部分をなくしたということなのだそうである。

敦化門前にて 少しはずれたところにある楽寿斎(アクソンジェ)という建物は、大韓帝国最後の皇太子妃であった李方子(イ・バンジャ)妃が1989年に亡くなるまで住んでいた建物である。李方子妃は、梨本宮家の第一王女であって、つまりはれっきとした日本の皇族であった。しかし、政略結婚で朝鮮にとついでからは韓国の福祉事業のために尽くすなど、韓国の国民からも「我が国最後の王妃」として慕われていたという。ひととおり王宮を見たあと、約45,000uあるという庭園、秘苑(ピウォン)を散策する。木々の間からカササギがときおり姿を見せる。白と黒のツートンカラーをしたカラスほどの大きさの鳥である。最後に入り口の敦化門に戻ると、やがて門の前には朝鮮王朝時代の衛兵の格好をしたひとびとが現れ、門衛の儀式を再現している。その儀式が終わってから昌徳宮の前を離れた。

 
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