YAGOPIN雑録

世界あくせく紀行

昌徳宮

● ソウル編・2


ソウル駅
ソウル駅

 翌朝、ホテルから地下鉄を乗り継いで、まずはソウル駅へとやってきた。現在のソウル駅舎は1925年竣工の建築であり、1914年開業の東京駅と同じくルネッサンス様式、赤レンガ造りの建物となっている。設計者はドイツ人デ=ラランデと東京帝国大学教授の塚本靖だそうだ。

 改めて述べるまでもなく、1910年の8月から1945年の8月までは、日本による朝鮮半島植民地支配の時代、韓国で言う「日帝時代」であって、ソウル駅もその「日帝時代」の建物のひとつということになる。当時、現在のソウル特別市は「京城府」、ソウル駅は「京城駅」と呼ばれていた。今のソウル駅は線路の上が駅ビルになっていて、飲食店などがたくさん入っている。朝食をそこのマクドナルドでとったあと、ソウル駅を出発点にソウル市内を歩いていこうと思う。

南大門市場を歩く。
南大門市場を歩く。

 ソウル駅から東へと歩いていくとすぐに街区全体がアメ横状態になったという感じの商業街「南大門市場(ナンデムンシジャン)」に至る。かつてソウルは城壁に囲まれた都市であり、東西南北の大門と小門、合わせて8つの門からしか出入りができなかった。その中でソウルの町の正門にあたるのが南大門であり、南大門の近くには、かつて年貢を納める倉庫があった。そのためやがて南大門の前には自然発生的に市ができ、それが発展して現在の南大門市場となったものという。現在の南大門市場は衣料品の店が多く、どこか微妙に顔が違うキティちゃんのTシャツや山積みになったルイ・ヴィトンなど怪しげなものも中には交じっている。表通りには屋台や露店も多く、どこもかしこも人でごった返している。

 南大門市場からさらに歩を進めると、ソウルの銀座と称される繁華街、明洞(ミョンドン)に着く。新世界(シンセゲ)・美都波(ミドパ)・ロッテのソウル三大デパートがこの町に集まっており、裏通りに入っても、さまざまな店が立ち並び大勢の人々が行き交っている。明洞の「洞」は「町」という意味。もともと明礼殿という建物があったことから、明礼洞と名づけられ、それがつづまって明洞という地名になったという。日帝時代には「明治町」と呼ばれており、現在の新世界百貨店の建物は、もとは三越の京城店として建てられたものである。新世界百貨店の向かい側には韓国の中央銀行である韓国銀行の本店があり、この建物もやはり日帝時代に朝鮮銀行として使われていた建物だった。設計者の辰野金吾は、日本銀行本店の設計者でもある。

 方向を変えて南大門へと向かう。先述したように城壁で囲まれたソウルの町の正門で、正式には「崇礼門」という。1394年にソウルに都が遷されてから2年後の1396年に造られた門であり、大韓民国の国宝第1号に定められている。南大門の両側に連なっていたはずの城壁は既に撤去されており、花崗岩の土台の上に建つ二層の大きな門楼だけが、交差点のロータリーの真ん中にぽつねんと建っている。

南大門。かつては左右に城壁があった。
南大門。かつては左右に城壁があった。

 南大門から太平路に入り、ソウル市庁に向かって歩いていく。市庁の建物は、かつての「京城府庁」の庁舎をそのまま利用したもので、2002年ワールドカップの大きな垂れ幕が正面に掛かっている。ソウル市庁の向かい側はソウル五宮と呼ばれる5つの宮殿のひとつである徳寿宮(トクスグン)。道幅は広く、たくさんの車が通りすぎていく。ほとんどの車は韓国の三大自動車メーカーである、現代(ヒョンデ)、起亜(キア)、大宇(デウ)の車であり、日本車を含め外車はほとんど見かけない。横断歩道が少なく、広い道路を渡るには地下道を使う。この地下道は有事の際の退避所を兼ねたものだが、町なかを歩くのにこう階段の昇り降りが多いのではお年寄りにはたいへんそうだ。

 ハングル文字を作らせた世宗(セジョン)大王の名をとった世宗大路の中央には豊臣秀吉軍を破った李舜臣(イ・スンシン)将軍の像が立つ。左側に韓国政府総合庁舎ビル。白っぽい地肌を見せる標高342mの北岳山(プガクサン)を背景にして、正面には光化門(クヮンファムン)が見えてきた。

光化門。手前が海駝の像
光化門。手前が海駝の像

 光化門は、ソウルの最初の王宮であった景福宮(キョンボックン)の正門である。ソウルの地図を見ると、北岳山のほぼ南に景福宮があり、その南に景福宮の正門・光化門があり、その南方にソウルの正門・南大門がある、という構成になっている。これは中国の都城の造りにほぼ準じているといえ、景山、紫禁城、天安門、前門が北から南に一直線に並んでいる北京にもちょっと似ている。また、現在は北岳山と景福宮の中間に青瓦台(大統領官邸)が建てられており、この青瓦台の位置も基本的にはこの王都の構造を引き継いでいるように見える。

 ところで、つい数年前の1995年までは景福宮と光化門の間をさえぎるように横に長い5階建てのビルが建っていた。取り壊されるまでは政府中央庁舎、次いで国立中央博物館として用いられていた建物で、もとはといえば日本の朝鮮半島支配の拠点である「朝鮮総督府」の庁舎だった建物である。ソウルは風水思想によった都市であり、景福宮の建つ場所は、北岳山を主山とする山々に囲まれた「気」の集中する場所(「穴(けつ)」と呼ばれる。)になっていたというが、朝鮮総督府の建物はその「穴」の真っ正面に立ちふさぎ、王都の「気」の流れを断つような場所に建てられていたのである。韓国では墓の位置を決める際などに今でも風水思想が重視されていると言われ、今年開港した仁川国際空港でさえも風水的に見て最も良い位置に建設されているというから、これは韓国の人々にとってはかなり重大なことだっただろう。

 また、日本は総督府庁舎を建設する際に、その前にあった光化門を取り壊すことを考えていた。しかし、これについては美学者・哲学者である柳宗悦など、日本人の間からも反対運動が起こったためにとりあえず景福宮東側に移設保存されることとなったのである。アーチ型の入り口を3つ開けた花崗岩の土台の上に立つ2層の楼閣。門の左右には水獣・海駝(ヘテ)の像がつきしたがって火災から門を守っている。今でも韓国の文化を守った日本人として韓国で尊敬されているという柳宗悦が、『失はれんとする一朝鮮建築のために』という文章の中で「おお、光化門よ、光化門よ、雄大なる哉汝の姿」と記した光化門は、朝鮮戦争のときに一部が破壊されてしまうことになるのだが、後に元あった位置に忠実に復元され、その雄大なる姿を現代に伝えている。

旧朝鮮総督府の跡地
旧朝鮮総督府の跡地

 しかし、光化門がもとの位置に戻されたことにより、ドイツ人デ=ラランデが基本設計を行った西洋建築の旧総督府庁舎の前に、韓国の伝統的様式の光化門が建つという奇妙な構図ができあがってしまった。光化門を復元する際に、合わせて旧総督府の解体も考えられていたそうだが、解体費用が莫大であるためにそのまま政府庁舎として残されることになり、政府庁舎移転の時期にも取り壊しが議論されたものの、当時の朴正熙(パク・チョンヒ)大統領の決断で博物館としての残存が決まったという経緯があったようだ。しかし結局、1995年からは解体工事が行われることとなり、3年がかりで解体が完了した。いま光化門から中に入ると、すぐその前には工事用のフェンスが立ちふさがっているが、ここにかつて旧総督府庁舎が建っていたのである。

 解体工事の際の映像は僕もテレビで見た記憶があるが、旧総督府庁舎の上にのっかった塔を切断してクレーンで持ち上げるシーンが「斬首」を連想させて、どうにも不愉快な印象を免れなかった。しかし、総督府庁舎建設の際に日本は景福宮にあった建物の数々を撤去してきているのであり、それを思えば解体もしかるべきと言わざるをえない。今はそのときに撤去された景福宮の各宮殿の復元工事が行われており、景福宮には入れないものと思って、そのまま外へ出てきてしまったが、景福宮に残る勤政殿(クンチョンジョン)や慶会楼(キョンフェラン)などの建物は工事中でも公開されていたようだった。素通りしてしまって少し残念なことをした。 

 この章では、「日帝時代」の「京城」の遺物に注目して現代のソウルを歩いてみたが、念のために言っておくと、僕は日本の韓国併合時代を懐古したり肯定したりするつもりはまったくない。当時は当時なりの事情があったのかもしれないが、とりあえず現代においては、まったく文化の違う(と、この旅の中で僕は感じた)国を支配しようとした感覚はちょっと理解しがたいものがあると思う。しかし、今のソウルにおいても、50年以上前の「日帝時代」の痕跡を探すことはかなり容易であるし、この町を日本が支配したという事実には目をそむけることができそうもない。考え過ぎといえば考え過ぎかもしれないが、やはり日本人の僕にとっては、そうした痕跡を見つける度に、なんとも複雑な気分にならざるをえないのである。

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