YAGOPIN雑録

世界あくせく紀行

サンフランシスコ市庁舎

● サンフランシスコ編・アルカトラズ

9月20日(月曜日)

 翌日は月曜日。ケイちゃんとマキさんに見送られて田澤くんは仕事に行き、小田と僕は2人で市内観光へと出かける。

 サンフランシスコ名物といえば何をおいてもまずケーブルカーだろう。市内を南北に走るパウエル=ハイド線は、周辺にホテルやブランドショップが集中するユニオン=スクエアと、観光地フィッシャーマンズ・ワーフを結んでいるため、いつも観光客でごった返している。東西に走るカリフォルニア線の方が比較的すいているので、そちらの乗り場に向かう。

 古ぼけた車両に乗り込み、木製のベンチに腰掛けると、やがてケーブルカーはゆっくりと動き出した。このあたりはフィナンシャル=ディストリクトと呼ばれるビジネス街で、銀行の本店や証券取引所などが集まるところである。バンク=オブ=アメリカのビルの前を過ぎたあたりから急な坂が始まり、そのまままっすぐに坂を上っていく。ごとごと、ごとごと、およそ100mは上っただろうか。高級感漂うフェアモントホテルや、パリのノートルダム寺院を模したグレース大聖堂などの建つあたりでケーブルカーを降りて、いま登ってきた坂の下を眺めると、フィナンシャル=ディストリクトの高層ビルが心なしか少し低く見える。

 ノブヒル(“お偉方の丘”)と呼ばれるこの地区は、ケーブルカーの開通によって高級住宅地として開発されたところであり、今も3本のケーブルカーが集まっている。ケーブルカーを動かす基地も近くにあり、その建物はケーブルカー博物館となっていて見学することができる。レンガ造りの博物館に入ると、縦にぐるぐると回転する巨大な鉄の車輪がまず目に入る。この車輪は時速9 1/2マイル(約15km)で各路線の地下に埋設されたケーブルを引いており、そのケーブルをつかんだり離したりすることによってケーブルカーが動いたり止まったりする仕組みである。「なんだかずいぶん単純な構造だな」と隣で小田がつぶやく。

ケーブルカー。背後にトランスアメリカ=ピラミッド
ケーブルカー。背後に
トランスアメリカピラミッド
ケーブルを引く車輪
ケーブルを引く車輪

 サンフランシスコのケーブルカーは1873年に発明された後、8つの会社が市内を主に東西に結ぶ路線を競って開通させたが、1906年のサンフランシスコ大地震で壊滅的な打撃を受けたため、路線が大幅に縮小された。その後、全線廃止の危機も乗り越え、現在は残った3路線がサンフランシスコ市によって運営されている。博物館では100年以上に及ぶケーブルカーの歴史の中で市内を走った歴代の古い車両や、1982年から1984年まで全面運休して行われた大改修工事の様子などが展示されている。

 博物館を出てジャクソン通りまで1ブロック歩く。坂の下にはトランスアメリカピラミッドと呼ばれる三角形の超高層ビルが建っていて、その向こうにはサンフランシスコ湾にかかるベイブリッジが見えている。ジャクソン通りを上ってきたパウエル=ハイド線は、やはり満員に近かったが、なんとか乗り込むことができた。ケーブルカーはノブヒルを下って、ロシアンヒル(“ロシアの丘”)と呼ばれる別の丘に上っていく。混雑で景色がよく見えないまま、目的地のロンバード通りで下車すると、急な下り坂を前にして記念写真を撮っている観光客がたくさんいた。このロンバード通り、もちろんただの坂道ではない。1ブロック(直線距離で200m弱)の間に8つのカーブを持つ「世界一曲がりくねった坂道(The Crookedest Street in the World)」なのだ。もともとはまっすぐだったそうだが、急坂に自動車を通すため1920年にこのカーブが加えられたという。下りのみの一方通行で制限速度は時速5マイル(8km/h)。歩道は階段になっていて、カーブとカーブの間にはたくさんのあじさいが植わっている。のんびりと歩いて坂を下っていく間、何台かの車がのろのろとカーブを行き過ぎていった。

ロンバード通り。向こうにコイトタワー
ロンバード通り
向こうにコイトタワー
ロンバード通りを下から見上げる。
ロンバード通りを
下から見上げる。

 ロシアンヒルを下りきって、コロンブス通りを行く。サンフランシスコの中心街は碁盤の目のような道路で仕切られているのに、この通りだけは他の道路と無関係に斜めに通っている。ただの市街図を見てもその理由は分からないが、等高線の入っている地形図を見れば一目瞭然で、この通りはロシアンヒルとテレグラフヒル(“電信の丘”)の谷間を貫いているのである。よく見ると、ブロードウェイはノブヒルとロシアンヒルの間、ヴァンネス通りはノブヒルとパシフィックハイツの間、というように幹線道路は丘を避けて通してあるようだ。なんでもサンフランシスコには43の丘があるというから、道路を通すのにもそれなりの工夫が必要なんだろう。

コイトタワー
コイトタワー
コイトタワーからアルカトラズ遠望
コイトタワーから
アルカトラズ遠望

 フィルバート通りへ折れると、通りはテレグラフヒルへと上っていき、そのてっぺんにはコイトタワーがそびえている。高さ55mのタワーをかすめるように三洋電機のロゴをつけた飛行船が行き過ぎていく。1933年完成のコイトタワーは、リリアン=コイトという女性の寄付金により建設されたためにそう名付けられた。エレベーターでタワーに上がると、展望台のひとつひとつの窓は、額装された絵のように、美しくサンフランシスコの風景を映している。フィナンシャル・ディストリクトの高層ビル群、ロシアンヒルからうねうねと下るロンバード通り、海峡にかかるゴールデン・ゲート・ブリッジ、そしてサンフランシスコ湾には大きな船のようなアルカトラズ島が浮かんでいる。「ザ・ロック(“岩”)」の別名を持つアルカトラズ島は、南北戦争のころは要塞としての役目を果たし、そして1934年から1962年までは連邦刑務所として使われていた。刑務所の廃止後は、アメリカ原住民活動家による占拠を経て、観光地として一般に公開されている。

ニコラス=ケイジ(のつもり)。なお、本文中の台詞はニコラス=ケイジのものではありません。 ショーン=コネリー(のつもり)
「おたくのよく知っている場所で人質事件が発生した。アルカトラズ刑務所だ。」
「…人質事件?」
「観光客80人だ。」
「あのロックが観光名所になっているのか。」
「それはどうでもいい。お前はロックに精通しているはずだ。」
「脱走できるほどにはな。」
「だからその知識を役に立てる気はないか。協力すれば自由を約束しよう。」

 サンフランシスコに化学兵器ミサイルを向け、アルカトラズに立てこもるテロリストを制圧するために、FBIが協力を求めたのは、アルカトラズからの脱獄経験を持つ囚人メイスンだった。…というのは、映画『ザ・ロック』のストーリー。メイスンを演ずるショーン=コネリーと、FBI捜査官のニコラス=ケイジが、サンフランシスコを縦横に駆けめぐる序盤のシーンには、フェアモントホテルやカリフォルニア線のケーブルカーもちゃんと登場している。

 アルカトラズ島へは、フィッシャーマンズ・ワーフから船が出ている。チャイナタウンで飲茶をし、少し腹ごしらえをしてから船に乗ると、島まではわずか10分ほどで着いてしまった。セルハウスと呼ばれる刑務所の建物は島の一番高いところに建っている。セルハウスの入り口で渡される案内テープのスイッチを入れると、イヤホンから日本語の説明が流れ出した。あとはこのテープの指示に従って動けばいい。テープは、セルハウスに入ると、まずBブロックとCブロックの間の通路で止まるように指示を出した。

 「ここは、アルカトラズの“ブロードウェイ”です。左手の突き当たり、時計のある下は“タイムズ・スクエア”と呼ばれていました。」

 ニューヨークのそれとは似ても似つかぬ“ブロードウェイ”には、天窓から太陽の光が差し込んでおり、意外と明るい。通路の両側には鉄格子のはまった独房が上下3段にずらりと並んでいて、鉄格子のところどころには、それぞれの房に入れられた囚人の顔写真が貼ってある。シカゴ暗黒街の帝王・アル=カポネは、Cブロックの中段に7年間入れられていた。3畳ほどの房の中には棚が2段とベッドと洗面器と折りたたみ式のテーブルがあるだけ。Cブロックの下段では、鉄格子のはまった房の中のベッドで寝ている人がいた。と、よく見れば、布団から出ている頭はあまり精巧とはいえない人形である。なんでもこの房の住人だったフランク=モリスは、1962年6月、コンクリートのかけらや理髪所で拾った髪の毛でつくったこの人形の頭をベッドに置いて看守の目を欺き、スプーンで開けた穴から房を抜け出したのだという。『ザ・ロック』のメイスンもアルカトラズから脱獄したことになっているが、実際にアルカトラズ島から脱出することができたのは、このモリスのグループだけで、彼らの行方は今もって分かっていない。潮流が早く、水温が低いため、おそらく溺死したのだろう、ということになっている。

アルカトラズ島
アルカトラズ島
"ブロードウェイ"
"ブロードウェイ"
カポネの房
カポネの房
モリスの房
モリスの房

  “タイムズ・スクエア”の向こうには囚人たちの食堂がある。食堂にはパイプがめぐっていて、暴動が起こったときには催涙ガスが噴射されるようになっていたが、実際に使われることはなかったようだ。Cブロックと背中合わせになっているのは隔離室のあるDブロックで、その並びには図書室と面会室もある。表に出ると灯台があり、そのほんの2kmほど先には摩天楼の建ち並ぶサンフランシスコの街並みが浮かんでいる。風向きによっては都会の喧騒がこの島まで聞こえたという。アルカトラズの囚人たちは、すぐ手の届きそうなところにある自由な世界と向き合って、いったい何を思っていたのだろうか。

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