YAGOPIN雑録

世界あくせく紀行

ムグンファ号

● 釜山・慶州編・4


慶州駅
慶州駅

 赤い壁に黒い屋根の韓国風建築となっている慶州駅を出た。慶州市は慶尚北道(キョンサンプクド。道は日本の県にあたる。)に属し、人口は約30万人。駅前はけっこうにぎやかである。現在の慶尚北道・慶尚南道(キョンサンナムド)は、古代の朝鮮半島を高句麗・百済とともに支配した新羅王朝の本拠地だったところであり、新羅の都・金城が置かれていたのがここ慶州であった。新羅は676年に高句麗・百済を滅ぼして朝鮮半島を統一し、その都である金城の人口も最盛期には約100万人を数えたと言われる。しかし900年ごろ、後高句麗国と後百済国が相次ぎ勃興して新羅は分裂し、再び三国時代に入る。そして935年に新羅最後の王である敬順王が、後高句麗国の侍中(首相)から高麗国王となった王建に帰順し、慶州の都としての歴史もここで終わった。開城(ケソン。現在は北朝鮮支配下。)を都とする高麗は、続いて後百済を滅ぼして朝鮮半島を再統一したのだが、このとき王建は旧新羅勢力を厚遇する一方で旧後百済勢力を非常に警戒したと言われる。このため新羅の本拠地だった慶尚北道・慶尚南道に比べて、百済・後百済の本拠地だった全羅北道(チョルラプクド)・全羅南道(チョルラナムド)は冷遇され続け、この両地域の地域対立が現代に至るまで韓国においては大きな問題とされてきたのである。

 古都・慶州の市街地には古墳を始めとする文化財が多く集まっているが、まずは新羅時代から続く名刹で、韓国の寺院の中でいちばん参詣客が多いとも言われる仏国寺に向かうことにする。仏国寺は吐含山(トハムサン)の麓にあり市街から16kmほど離れているため、1,050ウォン(約100円)払って10番のバスに乗った。乗客は10人ほどしかいない。バスはかなりのスピードで走り、あっという間に町を抜け、湖畔に現代・ヒルトンなどの大きなホテルの立ち並ぶ普門(ポムン)観光団地を過ぎていく。案内放送がまるでないままどんどんバス停を通過していくのでちょっと不安にもなったが、30分ほどでバスはなんとか無事仏国寺前のバスターミナルに到着した。雨がまた降り出した。バスを降りるとバス停には黄色いレインコートを着たおばさんが待ち構えており、ピビンパム、テンジャンチゲなどと言いながら「トンウォンシクタン」と印刷された名刺をくれた。「シクタン」は「食堂」の韓国語読みと思われるから、飯を食って行け、ということなのだろう。ちょうど腹も減っていたし寒いし雨宿りもしたかったので素直におばさんの後をついていく。おばさんは僕を店まで案内するとまたバス停に戻っていった。あまり綺麗とは言えず広くもない店の中には、近所の人らしいおばさんが何か食べているほか、厨房におばあさんがひとりいるばかりだった。

 雨は降り止まない。車も人もあまり通らない広い道を眺めていると、テーブルいっぱいにキムチなどが入った小皿が並べられた。とにかくやたらに前菜が並ぶのが韓国流なのだろうが、何しろ辛いものが多い。キムチもさまざま種類があって、小蟹のキムチなどはわりと好きなのでばりばりと食べてしまったが、基本的に辛いものは苦手である。韓国では生水を飲むのは避けたほうがよいとガイドブックに書かれているので、水を飲むわけにもいかず往生する。その後にメインのテンジャンチゲとピビンパムがやってきた。テンジャンチゲは野菜や豚肉などを煮こんだスープで、ベースは味噌味なのだが、これまたかなり辛いうえにものすごく熱い。申し訳ないが猫舌で熱いものも苦手なのだ。最後のピビンパムはいわゆる「ビビンバ」で、ごはんの上に山菜や薄い目玉焼きを唐辛子味噌といっしょに乗せて、よく混ぜて食べるものである。「ピビン」は「混ぜる」の意味、「パム」は「飯」の韓国語読みだから、「混ぜご飯」とでも訳せばよいのだろうか。これは好みで唐辛子味噌の分量を調節できるのでなんとか美味しくいただけた。お勘定は全部で5,000ウォン(約500円)。あまりに安い。しかもテンジャンチゲなどはだいぶ残しちゃったのだが、韓国では食べ切れないほどの料理を振る舞うことが美徳とされ、ご飯を残すことはそれほど悪いことではないらしい。

仏国寺。手前が安養門。奥が紫霞門。石段は新羅時代のもの
仏国寺。手前が安養門。奥が紫霞門
石段は新羅時代のもの
回廊から見た極楽殿
回廊から見た極楽殿

 僕が店を出るのと入れ替わりに、僕と同じくらいの年恰好の観光客がひとり、また黄色いレインコートのおばさんに連れられて店にやってきた。日本人らしいので、こんちはとかなんとかちょっと挨拶する。バスターミナルのすぐ上が仏国寺で、入り口に「世界文化遺産 仏国寺」と彫られた大石が置かれている。お寺には雨が似合う。入場券を買い、京都のお寺を思い浮かべながら木々の間を歩いていくと石段の前に出た。石段の上には緑や赤に塗られた壁に黒い瓦屋根を乗せた「紫霞門」という門がある。門の左右には同じように彩色された回廊が続いており、横に長い建物が石の基段の上に乗っているようにも見える。左側の回廊はもうひとつの門につながっており、「安養門」と書かれたその門の前にも石段がある。仏国寺は、535年に華厳法興寺として創建され、その200年ほど後の新羅王朝第35代景徳王の時代に宰相の金大城が大改築して、現在の規模の10倍ほどある大寺院となった。当時の大伽藍は豊臣秀吉の文禄の役(韓国では壬辰倭乱と呼ぶ。)のときに焼き払われ、現在の建物はその後の再建である。しかし、秀吉軍が寺を焼いても石造物は残ったため、ここにある石段は建物よりも数百年から千年以上も古い新羅時代のものである。石段には名前がついていて、紫霞門の前にある石段は下半分が「白雲橋」、上半分が「青雲橋」、安養門の前にある石段は同じく「七宝橋」「蓮花橋」という。なぜ石段のことを「橋」と呼ぶかといえば、この石段は俗世から極楽へと渡る橋であると観念され、石段の下にはかつて小さな蓮池も造られていたそうだ。僕もこの橋を渡って極楽を拝みたいところだが、国宝なので上れない。しかたなく横っちょにある別の入り口から中へと入る。

三重塔と宝塔
三重塔と宝塔

 仏国寺は奈良の法隆寺や大阪の四天王寺のように回廊に囲まれた寺院であり、回廊の中央に極楽殿という建物が建っている。先ほどの七宝橋・蓮花橋と安養門がこの極楽殿への入り口にあたる。回廊も極楽殿も緑や赤の彩色が施され、建物の妻の部分には大きな「卍」まで描かれており、建物の配置は日本の古い寺院と同じような感じでも趣はだいぶ違う。むしろソウルで見た李朝時代の宮殿によく似た雰囲気なのだが、壁面にたくさんの仏様が描かれているのが宮殿とは異なっている。建物の中にも金色の仏像があり、仏像の後ろの壁面にも多くの仏様が描かれている。これが昔の韓国の人々が思い描いた極楽の姿なのだろう。一段高いところにはもうひとまわりの回廊があり、その中央には、極楽殿よりもワンサイズ大きい大雄殿という建物が建っている。白雲橋、青雲橋、紫霞門はこの大雄殿の入り口にあたるのだが、こちらの回廊の中は、遠足か社会科見学のこどもたちが駆け回っており、とてもゆっくり見ていられる状況ではなかった。法隆寺や四天王寺では回廊の中に五重塔も建っているが、ここではその代わりに高さ10mほどもある石造の三重塔と宝塔が左右に建っており、これらも新羅時代の仏教美術を伝えるものとして国宝に指定されている。三重塔は方形の比較的シンプルな形をしているのに対し、宝塔の方は下層が方形、上層が円形で、さらに八角形の屋根を乗せた独特の形をしたものだ。

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