YAGOPIN雑録

日々のできごと・思うこと

若草山の山焼き

● 2004年1月~3月


YAGOPIN - 04/03/28 02:42:08

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 先週日曜日(21日)、日帰りで北近畿方面を回ってきた。

 7時過ぎに大阪を出たJR宝塚線の快速電車は1時間ほどで終点の篠山口駅に着く。丹波篠山へはここからバスに乗り換えなくてはならないので、時間の都合で今回はパスし、福知山行きの電車に乗り換えた。少し前に仕事で福知山を訪れたとき、車で福知山城の前を通りかかり、なかなか立派なお城だったので、いつかちゃんと来てみようと思っていたのである。ちなみに篠山も福知山も昔の丹波国だが、篠山市は現在兵庫県、福知山市は京都府である。

 丹波はかつて明智光秀の領国で、福知山城も明智光秀の縄張りだという。天守閣の建物は1986(昭和61)年の復元だが、石垣は光秀の時代である天正年間(1573~1592)のものと、その後の慶長年間(1596~1615)のものが大改修を経ながら残存している。石垣にはお寺の墓石などを転用したものが多く含まれ、梵字の彫られた石や、明らかに石塔の一部と見られる石があちこちに埋め込まれている。内部は資料館となっていて絵心のある殿様が多かった朽木家代々の画軸などが展示されている。最上階からは福知山の城下町と 1953(昭和28)年に大洪水を起こした由良川の流れが見渡せる。

福知山城復元天守
福知山城復元天守
石塔などが石垣に転用されている。
石塔などが石垣に
転用されている。

 福知山から特急で豊岡に向かう。ここから30分ほどバスに乗ると但馬の小京都・出石(いずし)である。出石は皿蕎麦で有名。出石焼の白い皿5枚に盛られた蕎麦をわさび・ネギ・とろろ・卵を入れたつゆにつけて食す。関西は蕎麦屋よりうどん屋が多いので、蕎麦を食べるのも久しぶりである。出石蕎麦も起源は信州で、転封により出石藩主となった仙石氏が前任地の上田から蕎麦職人を連れてきたことから名物になっている。殿様の転封により名物が伝播するという現象はたまに見られることで、加藤氏が下野壬生から転封になるとき近江水口にかんぴょうを持ち込んだり、食べ物ではないが、有馬氏が日向延岡から転封になるとき越前丸岡に日向神楽を持ち込んだというような例もある。

 今日の出石は初午のお祭りということで屋台がたくさん出ている。桂小五郎が一時身を隠していたという場所を過ぎて明治期の豪商の屋敷を利用した史料館へ。土蔵が藩政資料展示室になっていて具足などが展示されており、中でも幕府から出石藩に対して出された領地目録が2枚展示されているのが目を引いた。1枚は5万8000石分の領地目録、もう1枚はその約半分3万石分の領地目録である。出石藩では、1835(天保6)年に仙石左京と仙石造酒(両者とも藩主の分家筋にあたる。)が藩の主導権を争う「仙石騒動」が起き、藩主も責任を問われて減封となっているのだ。

 史料館の内壁は赤みを帯びている。近くで採れる赤土を壁土に利用しているのだそうで、付近には赤い土壁の酒蔵も建っている。1892(明治25)年に出石気多郡役所として建てられた「明治館」では、出石出身者の展示がなされていた。沢庵和尚、東京帝大初代総理の加藤弘之、「粛軍演説」で知られる代議士・斎藤隆夫、批評家の小林秀雄、経済学者の大塚久雄など、出石には知性派の有名人が多いようだ。1871(明治4)年に太鼓で時を知らせるために建設された辰鼓楼は意外と大きいので驚いた。堀を渡り、赤い鳥居の並んでいる階段を上っていくと出石城に入る。稲荷神社になっている出石城からは出石の城下町が一望のもとに見渡せる。

 バスで豊岡に戻る。30分ほど時間があいたので豊岡市内をぶらつく。コウノトリで知られる豊岡市は人口5万人に満たない小都市だが、但馬地方の中心都市であり、但馬銀行の本店もある。地場産業は、かつての藩の専売品・柳行李から発展した豊岡かばんだそうだ。市役所とその向かい側の銀行支店が戦前の洋風建築で、街並みに瀟洒な印象を与えている。商店街も地方都市にしては比較的活気が残っているように見えたが、再開発でできた駅前のショッピングセンター「アイティ」は、この町には少々規模が大きすぎたようで、現在自主再建中という。

出石そば
出石そば
出石のシンボル・辰鼓楼
出石のシンボル・辰鼓楼
出石城跡から出石城下町を見る。
出石城跡から
出石城下町を見る。
豊岡市役所
豊岡市役所

 豊岡から2駅目は志賀直哉の『城の崎にて』で有名な城崎温泉である。石段を上がって温泉寺にお参りした後、7箇所ある外湯のひとつに入って旅の疲れを癒す。駅に戻っても電車の時刻まで間があったので、駅前の足湯に浸かって待つことにした。

城崎にて
城崎にて
駅前の足湯
駅前の足湯

YAGOPIN - 04/03/27 18:52:51

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 みいさん、こんにちは。

 参考になるかどうか分かりませんが、外務省の海外安全ホームページや地球の歩き方のホームページなんかもチェックしてみては?

 さくらば、御苦労様~。関西へ来ることがあったら連絡してね。


さくらば - 04/03/23 10:51:50

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やっと国家試験終わりましたがね。今年は必修問題が難しくて合格ラインの8割を切る受験生がたくさん出る感じ。受けた印象だと、問題集をたくさんやった人じゃなくて、病院実習をまじめにやった人が受かるような問題になってた。まあ、なんにせよ、これから1ヶ月は遊びまくってやる~


みい - 04/03/21 13:56:02

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YAGOPINさん、調べてくださってありがとうございます。感謝感激です。 中国大使館HP!!インターネット活用術も未熟で恥ずかしい限りです。お手数おかけて申し訳ありません。本当にありがとうございました。


YAGOPIN - 04/03/21 06:28:19

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 夜遅い電車の中で子供を見かけたりすると、最近の子供はずいぶん夜更かしだなあなどと思うことがあるが、私は小学校低学年くらいまで午後8時に寝るように義務付けられていた。ドリフのある土曜日だけが9時まで起きていていい「特別な日」だったのだ。

 昨日、いかりや長介さん、死去。謹んで御冥福をお祈りいたします。


YAGOPIN - 04/03/18 00:32:32

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 みいさん、こんばんは。

 御質問の件ですが、1については、少なくとも私は何も対策していきませんでした(ただし6年も前のことです。)。2については、鳥インフルエンザウイルスは、75度1分間の加熱処理で死滅するので、加熱調理した鳥肉を食べても問題ないと在中国日本大使館のホームページに書かれています。このページには中国での鳥インフルエンザに関する注意情報が記載されているので参考にされるとよいと思います。狂犬病に注意したほうがよいというようなことも書かれていますね。

 楽しい旅になるよう、十分お気をつけてお出かけください。


みい - 04/03/16 02:29:38
ホームページアドレス:http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/7491/

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部室とゆう名の基地(たまり場)、いいですね!物が多い分、思い出満載といった感じがします。私の青春の基地は、取り壊されてしまいました。すごく思い出いっぱいだったのに年々想い出が色褪せていきます・・YAGOPINさんのように写真撮っておけば良かったなぁと思いました。

あの、北京について質問いいでしょうか?
1.何か予防的な注射など接種したほうがいいですか?
2.北京ダックは鳥インフルエンザとは無関係ですか?

恥ずかしげもなく聞いてしまいました。無知ですみません、お時間がある時にでも教えていただけたら嬉しいです。


YAGOPIN - 04/03/15 22:54:04

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 みいさん、こんばんは。

 北京は今、2008年のオリンピック開催に向けて、町の大改造を行っているところで、仕事でよく中国に行く弟の話によれば、私の行った6年前とは比べ物にならないような状態になっているそうです。そういう話を聞くと、私もそろそろもう一度、中国に行かなくてはと思うのですが、実行に移すとなると、どうも踏ん切りがつかなくて困ったものです。

 さて、今日は所用で東京に行っていたのですが、早く着きすぎたので、時間つぶしに学生時代のサークルの部室をのぞいてみました。図書館やら教務課やら研究棟やら見覚えのない真新しい建物がやたらに建っていて驚きましたが、部室のある学生会館は昔のままのボロい建物で、少しほっとしました。当時は教室にいるより部室にいる時間の方が長かったほどで、ここで友人とだべったり、合宿旅行の企画を立てたり、部誌の印刷をしたりしていたものでしたが、いま改めて見ると、こんな汚いところによく長時間いられたものだとなんだか呆れてしまいます。

部室は相変わらずこの状態…。
部室は相変わらず
この状態…。

みい - 04/03/15 02:44:11

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はじめまして。お邪魔しております。5月1日~北京へ旅行することになり、事前勉強!とジオシティーズご近所さんを散策していたら、ステキなサイトさんに巡り逢うことが出来ました。 YAGOPINさんの旅行記を読みふけってしまい、随分長居させていただきました。(笑)おかげさまで、出発日が待ち遠しくなりましたぁ。深夜の訪問すみません、また寄らせて下さいね。                おやすみなさい。


YAGOPIN - 04/03/14 00:37:58

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 すっかり春めいて暖かくなってきたことでもあるし、今日は関西に春を告げる行事・奈良東大寺の「お水取り」に行ってきた。

 18時ごろ東大寺二月堂の前にやってくると、既に見物客で近辺は埋め尽くされており、ようやくのことで二月堂の入口の門のところに陣取ることができた。なんとかぎりぎり二月堂が見える場所である。待つこと1時間、19時になって照明が消され、赤々と燃える「おたいまつ」を持った「童子」が二月堂の回廊上に上がってくる。もくもくと煙を上げる「おたいまつ」を観客の上で回して火の粉を撒き散らし、さらに手摺り上で「おたいまつ」を回しながら、「童子」は回廊の端から端へと走っていく。端まで走り終えると再び観客の上で「おたいまつ」を回し、火の粉をあたりに撒き散らす。火の粉をかぶり、燃えさしを拾うと1年間無病息災とのことである。二月堂は1669(寛文9)年再建の重要文化財で、もちろん木造。よく見ると、回廊に落ちた火の粉をほうきで掃き落としている人がいる。撒き散らされた火の粉は地面に落ちていた何かに燃え移って小さな炎を上げていたが、それもすぐに消し止められた。さすがにこのあたりは徹底している。「おたいまつ」は20分ほどの間に10本上がっておしまいになる。ぞろぞろと帰途に着く人々に混じって駅へと向かった。

「おたいまつ」が回廊に上がる。
「おたいまつ」が回廊に上がる。
「おたいまつ」を持った童子が走る。
「おたいまつ」を持った童子が走る。
火の粉が観客の上に降りかかる。
火の粉が観客の上に降りかかる。
回廊の端でさらに火の粉を落とす。
回廊の端でさらに火の粉を落とす。

 ところで、この炎の行事をなぜ「お水取り」と通称するか。「お水取り」の正式名称は「修二会」といい、752(天平勝宝4)年、実忠和尚が観世音菩薩の前で行われているという悔過(けか)の行法(仏前に懺悔する行法)を取り入れて始めたものと言われている。その内容は、大まかに言えば、11人の「練行衆」というお坊さんが、毎年3月1日から14日まで二月堂に篭って、自らの罪障と人々の罪障を本尊の観音様に懺悔し、人々の幸福を祈るというものである。 14日間の行法の中で、13日未明に二月堂下の若狭井から観音様にお供えする水を取ってくる儀式があり、これを称して「お水取り」という。また期間中毎日行われ、「お水取り」の儀式で最も有名となった「おたいまつ」は、本来は、夜の行法に入る「練行衆」の足元を照らすために焚かれているものである。特に12日の「おたいまつ」は「篭たいまつ」と呼ばれる巨大なもので、また14日には、すべての「おたいまつ」が一度に回廊上に並ぶという。

 その他にも「修二会」の中で行われる儀式としては、東大寺にゆかりのある人々の名を読み上げる「過去帳奉読」、堂内で松明を振り回す「達陀(だったん)」、「練行衆」が全力疾走で堂内を走り回る「走りの行法」等がよく知られているらしい。「おたいまつ」は観光客向けのパフォーマンスといった感じだが、本来の「お水取り」の行法は、かなり複雑で奥深い内容のようだ。「おたいまつ」だけ見に行ってまともに拝んでもいない我々一般衆生の分も懺悔してくれている「練行衆」になんだか申し訳ない。


YAGOPIN - 04/03/08 02:08:53

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 近鉄特急さん、こんばんは。またふと思い立って日帰り旅行してきましたので、以下その報告です。


 二代将軍・徳川秀忠は家康の三男である。上に長男・信康、次男・秀康がいるが、信康は21歳のとき織田信長の命令で切腹させられたため、家康が天下人となったときにはこの世にいなかった。次の秀康は、豊臣秀吉の養子となり、さらに結城家に養子に出されてしまったためか跡継ぎとはならず、越前福井68万石・権中納言という、その後の御三家並に遇された。秀康の興した越前松平家は、子孫の不行跡が続いて石高は減少していったものの、幕末時点で福井32万石、松江18万石とその支藩2つ、前橋17万石、津山10万石、明石6万石、糸魚川1万石の計8藩に分かれて存続し、その石高の合計は当初の秀康の石高よりも大きくなった。

 先週の土曜日(5日)、越前松平家の居城の一つであった明石城に行ってみた。前に淡路島に渡ったとき、明石駅前に綺麗な一対の櫓が建っているのが気になり、いつか行ってみようと思っていたのである。本丸は、艮(うしとら・東北)、巽(たつみ・東南)、坤(ひつじさる・西南)、乾(いぬい・西北)の四隅の櫓を土塀でつないだ構造だったが、明治時代に艮・乾の2つの隅櫓が取り壊され、坤・巽の2つの隅櫓が重要文化財指定されて現存している。天守閣は天守台のみ建設されただけで結局完成しなかった。

 城跡は広い公園となり、堀の一部も残っている。梅が咲いている。晴れたり雪がちらついたり不安定な天気で風も冷たいが、日が照れば春の暖かさを感じる。2つの隅櫓は1ヶ月交代で内部を無料公開しているそうで、今回は坤の櫓を見学することができた。漆喰で固められた壁の厚みは約30cm。通常、伝統的な日本建築は斜めの筋交いを入れないはずだが、梁と天井の間にX型の筋交いが入っている。格子の隙間から明石大橋や、東経135度の子午線上に建つ明石天文科学館が見える。 2つの隅櫓は同じくらいの大きさの三重櫓だが、向きが90度異なり、破風の位置も少し変えられている。

 「熱心に見ていただいてるようなので特別に。」と受付のおじさんに県の発行しているパンフレットをもらった。それによると隅櫓を含む明石城の遺構は阪神大震災で大破し、江戸時代の工法で復興されたものなのだそうだ。新築されたばかりのような綺麗な外観は復興から10年も経たないことによるのだろう。曳家工法でいったん櫓を石垣から下ろして石垣と櫓の双方を修復するという大規模な修理を行い、元に戻すときは江戸時代同様、櫓と石垣をボルト留めせず、石垣の上に櫓を乗せただけにしている。筋交いはやはり明治時代の修理で入れたものだったが、地震で倒壊しなかったのは筋交いのおかげということで、今回の修理でもそのままにしたのだという。土塀は明治時代に一部撤去されていたのを合わせて復元したものだそうだ。

 明石といえば蛸の入った玉子焼(いわゆる明石焼)が名物である。たこ焼きとは違い、ふわふわの玉子焼を出汁につけて味わう。明石は海峡に面し、蛸や鯛などには明石の名が冠される。商店街を歩いていたら、観光協会か何かの人たちがイカナゴという魚のPRをしており、天ぷらやくぎ煮を食べさせてもらう。あんまり聞かない魚だが、なかなかうまかった。

明石城巽櫓。右手に明石大橋
明石城巽櫓。右手に明石大橋
明石名物・玉子焼
明石名物・玉子焼

 『源氏物語』にちなんだわけではないが、明石から山陽電車に乗り、須磨へ向かう。六甲山脈が海に落ち込む場所にある須磨は海と山が接近する風光明媚の地、今では神戸市内にありながら海水浴場のある場所として有名である。光源氏は政敵・右大臣の娘である朧月夜と恋仲になったことが露見して都にいることができなくなり、この須磨の地に引きこもった。そのときに明石の入道の招きに応じて明石に移り、入道の娘・明石の上と出会うことになる。

 須磨はまた源平の戦いのひとつ・一の谷の合戦が行われた地でもある。木曽義仲に都を追われた平家一門は、京都奪回のため、須磨・一の谷に陣を敷いて明石側から攻めてきた源氏軍と戦っていたが、源義経が平氏の意表をついて北側の山の上から駆け下ってきたため、たまらず船で四国へと敗走するのである。一の谷の合戦中、この鵯越(ひよどりごえ)の逆落としと並んで有名なのが敦盛のエピソードであろう。源氏方の武士・熊谷直実が波打ち際で豪華な鎧をつけた平氏の武将を発見し、組み敷いて甲を取ると、それは自分の息子と同じ歳・16歳の平敦盛(清盛の甥)であった。直実は躊躇したが、早く討ち取れという味方の声に押されてやむなく敦盛を討ち取る。後悔した直実はやがて法然上人の弟子となり出家して蓮生坊と名乗る、という話である。「思へばこの世は常の住み家にあらず。草葉に置く白露、水に宿る月よりなほあやし。きんこくに花を詠じ、栄花は先つて無常の風に誘はるる。南楼の月を弄ぶ輩も月に先つて有為の雲にかくれり。人間五十年、下天のうちを比ぶれば夢幻の如くなり。一度生を享け、滅せぬもののあるべきか。」という謡曲「敦盛」は織田信長が桶狭間の戦いに出陣直前に謡い舞ったことで知られる。

 敦盛の首塚がある須磨寺に参拝した。本堂は1602(慶長7)年、豊臣秀頼再建。先ほどの快晴がうそのような吹雪になり、30分ほどすると今度はその吹雪がうそのような快晴に戻る。首塚のほか境内には首洗いの池、義経が座って首実検したと伝えられる腰掛松など敦盛にちなむものがたくさんある。中でも宝物館には敦盛の鎧や、蓮生坊が作ったという敦盛像、そして敦盛が討ち取られたとき身につけていた名笛・小枝の笛(「青葉の笛」として知られる。)などたいへんな由緒のある品々が展示されていて非常に興味深い。小枝の笛は弘法大師が入唐中に作り、天皇に献上され、敦盛に下賜されたものという。一部割れてしまっているが、こんなものが普通に見られるのはすごいことだなと思う。

 戦いの場となった戦の浜、敦盛の胴体を埋めた敦盛塚、須磨浦公園など近辺にはほかにも行きたい場所があったのだが、あまりに寒いので中断して神戸市内に戻ることにした。

須磨寺・雪景色
須磨寺・雪景色
右が小枝の笛(青葉の笛)。
右が小枝の笛(青葉の笛)

近鉄特急 - 04/03/05 02:01:34

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フーム、YAGOPINNさんの行動力、色々な動機付けで旅を楽しめる・・・私が見習うべき点ばかりですね。 思い立ったら即行動。ありふれたスポットでも、なにか独自のモノを見つける。そうありたいものですね。


YAGOPIN - 04/03/04 02:13:00

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 近鉄特急さん、こんばんは。もともと書き込みの少ない掲示板ですので、リピーター様は私にとって神様同然です(笑)。

 さて、私は旅に関してはわりとミーハーなところがあるというか、なんだかんだ言っても有名スポットはなるべく押さえるようにしております。ただ、観光ツアーみたいに有名スポットばかりつなげても感動がありませんので、道中ぶらぶらしながら目的地にたどり着く、というのが決まりです。東海道も、この先に行けば有名な見どころがある!とか、美味しいものが食べられる!という目的があったので、長い距離も歩き通せたように思います。

 ところで、私はもともと関東の人間で横浜も何度も行っているため、今回の横浜行きは、「旅」というより、むかし行った場所の変化を訪ねてきたという感じでした。表紙用に学生時代の写真を探しているうちに、前に赤れんが倉庫に行ったときの写真も見つけたので、ここに載せておきます。縮小しているので見づらいですが、れんがの壁はスプレーの落書きだらけ。無造作に置かれた青いトレーラーがれんがの壁と良い対照をなしています。日付を見て驚いたのですが、1994年ということは、つまりちょうど10年前ですね。光陰まさに矢のごとしです。

横浜・赤れんが倉庫(1994年4月)
横浜・赤れんが倉庫
(1994年4月撮影)

近鉄特急 - 04/03/03 02:05:34

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ごぶさたしております。今回は横浜ですか。私も数年前にいきましたが、赤レンガの中身は外見と違ってモダンでしたねー。横浜は基本的に都市なので、いつものYAGOPINNさんの趣向とは、少し趣がちがって近代的な人造物を巡られたようですね。私は、いわゆる「有名スポット」を見に行くのは得意じゃなく、なんでもない街角の佇まいを見ながらの「道中」のほうが好きです。東海道中なんか、まさにそれで、本来の「旅」という気がします。ああ、私も「旅」に出たくなってきました・・・


YAGOPIN - 04/02/22 15:06:07

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 出張のため、2週連続で東京へ帰った。2週とも金曜日に会議で、その後、東京の実家に泊まって、土曜日に大阪に帰ったのだが、先週、帰ったときには、久しぶりに横浜へ行ってきた。

 先日、開通した「みなとみらい線」の終点「中華街・元町」駅で降りると、目の前が中華街の朝陽門である。この地下鉄の開通で横浜人気が再燃しているようで、駅も中華街も人でごった返している。比較的人が少ない山下公園方面へ向かう。公園内をだらだら歩いていくと大桟橋の手前で行き止まりになるので、廃止になった貨物線の高架橋をくぐって市内に戻ろうとすると、いつの間にか、高架橋にエレベーターが設置されていて、貨物線の上を歩けるようになっている。

 この貨物線はかつて桜木町から山下公園を経て山下埠頭までの区間を結んでおり、1989(平成元)年にみなとみらい地区で横浜博覧会が開催されたときには、臨時列車が走ったりしたものである。桜木町側は少し前から「汽車道」という遊歩道になっていたのだが、山下公園側も2002(平成14)年に「臨港線プロムナード」として開放されたのだそうだ。以前から、ここを通るたびに高架橋によじのぼって上から港や公園を眺めてみたい衝動にかられていたので、さっそくプロムナードに上がる。

 上がってみると、下から想像したほどの「絶景」ではなく、遊歩道自体もありきたりな感じではあったが、右を見ると大桟橋埠頭には豪華客船が停泊し、正面に横浜税関のクイーンの塔が現れ、その向こうにみなとみらい地区が見えてくると、すぐに赤れんが倉庫の手前に行き着く。10年ほど前に大学のサークルでこのあたりを歩き、赤れんが倉庫を見に行ったときのことを思い出すと、当時歩いたルートよりはだいぶショートカットになっている。赤れんが倉庫も当時は廃墟同然だったが、いつの間にか周辺はきれいに整備されていて同じ場所とは到底思われない。臨港線プロムナードにしろ、赤れんが倉庫にしろ、ランドマークタワーの前にある三菱造船所のドッグ跡や、少し古くは山下公園の氷川丸など、横浜という町は産業遺産をうまく活用していて好ましい。

臨港線プロムナードからみなとみらい方面を見る。
臨港線プロムナードから
みなとみらい方面を見る。
赤れんが倉庫
赤れんが倉庫

 さらに足を伸ばすとみなとみらい地区に入る。駅から中途半端に遠かったイメージのあるこの地区も、みなとみらい線の駅ができてずいぶん便利になった。渋谷までは直通で30分ちょっとである。


YAGOPIN - 04/02/22 14:57:58

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 ちゃきさん、こんにちは。

 ラストサムライの土下座でなんとなく違和感があったのは、日本で今、土下座というと、石原プロのロケでの事故とかJCOの臨界事故とか、とんでもない不祥事が発生したときに最大級の謝罪の表現として、というのが普通なのであって、あの場面はちょっと違うよな、と思いますよね。で、なんであの場面に土下座を使ったのかな、とつらつら考えてみると、思い立ったのは、終戦時の玉音放送を聴いて、二重橋前で国民が土下座している写真。なんとなくあの写真とだぶるところがあるような気がします。

 で、あの写真のことをネットで検索してみると、あの写真は1945(昭和20)年8月15日の某新聞に載っていたものだそうです。玉音放送があったのは同日正午。朝刊は当然その後に配られたのですが、玉音放送があって、国民が皇居前広場で土下座して、写真を撮って、現像して印刷して、その日のうちに新聞を配ったとは考えにくい、やらせの可能性が濃厚、というのがあちこちに出ていました。真偽のほどは分かりませんが、やらせ写真で日本人の土下座イメージが定着してしまったのだとしたら、なんだか情けないものがありますね。


ちゃき - 04/02/11 07:45:09

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こんちは~。 私もラストサムライ見ましたよ~。私も違和感感じました。(笑)私は歴史には詳しくないから、YAGOPINさんの様に明確には言えないんだけど。。。。 最初にサムライが登場する場面。 山中に生えていた木! 南国に生える木でした! 「どこの山?~」って (笑) あと 最後に 勝元が死ぬとき みんなが正座しておじぎしたのも変だと思った。 でも 謙さんは すごく輝いてましたね~(笑)


YAGOPIN - 04/02/08 13:14:52

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 外出先で3時間ほど時間をつぶさなくてはならなくなり、久しぶりに映画館に行った。やっていたのは「ラストサムライ」。

 1876(明治9)年、インディアン戦争後、アルコール漬けの日々を送っていたオールグレン大尉(トム=クルーズ)は、軍事指導のため、お雇い外国人として日本にやってくる。明治政府に従わず、旧来のサムライとしての生き方を守ろうとする勝元参議(渡辺謙)を討伐する目的だったが、拙速な討伐作戦の失敗でオールグレンは勝元の捕虜となる。そして、勝元たちと山村でともに暮らすうち、オールグレンはサムライの心を知り、共感をおぼえていく・・・、というストーリーなのだが、史実とはあまり関係なく話が進んでいくため、自分の知っている日本史とのギャップが大きくて、かなり違和感を感じてしまう。逆に言うと日本人にはこういう全世界に分かりやすいストーリーは創れないのであって、そういう意味では新鮮かもしれない。

 違和感を感じたところを挙げたらキリがないのだが、どうにも納得できなかったのは、 

 さらに、天皇の玉座の前に狛犬が置いてある場面があったりして、ちょっと空間が寂しいからエキゾチックなアイテムとして狛犬とか置いてみたんだろうなー、などと邪推していたが、実はこれは正しいらしい。狛犬というのはもともと天皇の守護神として御座所に置かれるようになったものなのだそうな。かなり大胆に時代考証を無視しているわりに、妙に細かいところは正確なので侮れない。


YAGOPIN - 04/02/01 17:03:18

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 先々週の金曜くらいからどうも風邪気味です。ちょっと良くなると深酒をして、翌日は二日酔いと風邪のぶり返しのダブルパンチでぐったりするといった具合でなかなか完治しません。昨日今日は寮に閉じこもって安静にしてますが、そろそろ食料が尽きたので外出しないと。府知事選挙の投票にも行かなくちゃならないし。


YAGOPIN - 04/01/12 15:34:10

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 昨日行われた奈良・若草山の山焼きに行ってきた。

 山焼きは、猪や虫の害を防ぎ、若草の発育を促すために江戸時代から行われている行事だそうで、毎年1月の第2日曜に行われている。日も暮れた17時半ごろ、春日大社の聖火が奈良法師によって運ばれ、春日神社の神官が祭事を執り行い、花火が打ち上げられる。 18時、ラッパを合図に、一斉に枯れ草に火がつけられると、火は裾の方からだんだんと上の方へ燃え移っていく。若草山のふもとで見ていたので、三段になっている若草山の一段目の様子しか見られなかったが、もうもうたる煙と時に高々と吹き上げる炎の様子はまるで山火事か火山の噴火のよう。この日の奈良はひどい寒さでホッカイロが手放せなかったが、それでも寒さをおして見にきたかいがありました。

春日大社
春日大社
山焼き前の若草山
山焼き前の若草山
冬の花火も美しい。
冬の花火も美しい。
燃え上がる若草山
燃え上がる若草山

YAGOPIN - 04/01/04 18:34:28

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 年末年始は、東海道の一部をなす佐屋街道(愛知県・三重県)を歩いたり、東京の実家に帰ったり、家族で南九州に旅行したりと日本中のあちこちを回っていました。もちろんその間、時間の許す限り親戚や先輩や友人とも会ってきています。特に12月30日は毎年、浪人時代の予備校の仲間たちと忘年会をすることになっており、今年も男8人(+うち1人のフィアンセ)が東京に集まりました。

 この忘年会、予備校時代の女性チューター(進路相談などクラスの面倒を見てくれる職員さん)の名前をとって、いつのころからか「美和の会」という名前がついています。みんな各自の道に進んでいて普段会うことはほとんどないのですが、12月の終わりごろになるとメールや電話で連絡をとりあって毎年30日に夜通し騒ぐ、というのが10年以上の習慣です。大学受験というひとつの目標に向かって、このメンバーと机を並べていたのは、わずか1年間のことですが、密度の濃い貴重な1年間だったなあと 30歳になった今は懐かしく思い出されます。

うっすらと雪化粧した阿蘇山
うっすらと雪化粧した阿蘇山
薩摩の小京都・知覧の武家屋敷通り
薩摩の小京都・知覧の
武家屋敷通り
噴煙あがる桜島
噴煙あがる桜島
青島・鬼の洗濯岩
青島・鬼の洗濯岩

YAGOPIN - 04/01/04 14:26:21

コメント:

 あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

迎春

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