YAGOPIN雑録

世界あくせく紀行

「浦東新区」遠望

● 上海・北京編・4


万里の長城

 万里の長城と紫禁城 (故宮)だけは見たいと僕が言ったので、翌日は万里の長城に行くことになった。仲本氏が以前に行ったときは日本人のいるホテルでタクシーを呼んでもらったというのでそれに倣うことにする。前は東のほうに行ったということで建国門から真東へ向かって歩いていく。初めて明清時代の旧北京城から外へ出たことになるが、建物が隙間なく並ぶ旧市街に比べ、その外側は近代的な建物がゆったりと配置された風景へと一変する。幅の広い通りを車が行き交い、三菱電機・三星電子といった「外資系」の広告看板が道を彩る。超高層の国際貿易センタービルの前で拾ったチラシには「Ito Yokado(華堂商場)」の文字と見慣れたハトのマークが描かれている。適当なホテルで宿泊客でもないのに日本人らしいフロントの若い女性に万里の長城へ行きたい旨を告げタクシーを呼んでもらう。「貸切で700元と言っていますが、600元にまけさせます。それでいかがでしょうか」。ふたりで10,000円弱ということになるが、そりゃあ、贅沢は言えません。彼女に礼を言ってタクシーに乗りこむ。運ちゃんはサングラスをかけてラフなシャツを着た、吉田拓郎を少し細面にしたような男だった。いや、タクシーの運転手だからタク郎か。

 車は建国門から旧北京城の城壁跡に設けられた環状道路を通り、やがて八達嶺高速道路に入った。片側三車線の高速道路がまっすぐに続いている。超車道 (=追越車線)、行車道 (=走行車線)、服務区 (=サービスエリア)、収費処 (=料金所)、…言葉は違うが、日本の高速道路と同じような緑色の看板が行きすぎていく。ただ、高架橋や築堤が多い日本の高速に比べて、こちらの高速はずっと平面を走り、道路と交差する部分のみ山なりの陸橋で越しているのが少し違う印象である。

広々とした街路と荷馬車
広々とした街路と荷馬車
長城の上
長城の上
高速道路(この写真は空港へ向かう高速道路)
高速道路(この写真は
空港へ向かう高速道路)
「服務区」の標識
「服務区」の標識

 昌平南環というインターチェンジから先はまだ建設中のようで、しばらく一般道を走り南口というインターからまた高速に入る。急に山が見えてくるが、日本の山々に比べると傾斜がきつく緑が少ないように思える。終点の八達嶺インターで料金を支払うと万里の長城はすぐだった。現在時刻は13時30分、15時までに戻ってくるとタク郎氏に伝え車を降りる。

 秦の始皇帝が万里の長城を築かせたことになっているが、万里の長城は秦代の遺跡にはあらずその後も農耕民族と遊牧民族の力関係を反映して変転を続けた生き物であるといえる。トルコ系やモンゴル系、ツングース系といった北方民族が中国に侵入するのは始皇帝の時代に限ったことではなく、古く春秋戦国から明の時代まで続いた。北方民族の侵入を防ぐため戦国時代に諸国が木と土で築いた長城を秦の始皇帝がつなぎ合わせ、漢の武帝がそれを西に延ばす。南北朝時代の混乱期には長城は秦代の長城よりずっと南にある現在の位置に築きなおされ、今見るレンガ積みの長城になったのは明代のことである。長城の高さはおよそ9mほどもあってどこからでも上がれるというものではないため、この八達嶺の上り口で入場料を払って長城の上へ上がることになる。荒涼とした山の尾根の部分に延々と長城は続いている。

延々と続く長城
延々と続く長城

 長城の上は甬道と呼ばれる通路になっているのでまっすぐ歩いていけば東は山海関から西は甘粛省の嘉峪関まで行けるはずだが、かなりアップダウンがきついのであまり遠くまで歩いていっている人はいないようだ。よく見ると甬道の左右では塀の形が違い、右側はただの低い塀だが左側は凹凸のついた高い塀に銃眼があけられていて、左側が化外の地、敵が攻めてくる側だということがわかる。また尾根の高くなったところにはのろし台が設けられ、ここが軍事施設であることを改めて思い知らせてくれるが、そののろし台ではあふれ返る観光客にたくさんの売り子が群がって絵葉書やら何やらを売りつけている。中国に入ってから欧米系の人種を見ることはほとんどなかったが、不思議とここでは金髪の観光客をよく見かける。

明の十三陵

 約束の時間になって再びタクシーに乗りこんだ。もう一箇所、明の十三陵に寄ってくれることになっている。明の十三陵は17代続いた明の皇帝のうち3代永楽帝から最後の崇禎帝までの陵墓の総称であるが、基本的に陵墓の形式はどれも同じであるので地下部分まで公開されている14代万暦帝の陵墓・定陵を見ることにする。万暦帝は、豊臣秀吉の朝鮮出兵などもあった明末の多難な時期に48年間も君臨した皇帝でありながら、酒色におぼれ、治世の半分以上にあたる25年間、一度も朝廷に出たことがなかったというとんでもない皇帝である。とんでもない皇帝でありながら墓は立派なものが造られ、しかしその立派な墓ゆえに地下まで暴かれてこうして観光客の見世物になっているのだからある意味では因果応報というべきか。

 日本人の思い描く墓のイメージとはまったく相反するような、金茶色の瑠璃瓦を載せた丹塗りの楼閣が緑の木々の中に高くそびえている。陵墓というより離宮といった趣の大建築だが、明代にはさらに稜恩殿や稜恩門といったさまざまな建物があたり一帯に建っていたという。ひととおり眺めたあと建物の裏側にある降り口から地下宮殿へと降りていく。地下宮殿というからどんなにすごいものかと想像したが、実際のそれは冷たい大理石の壁に囲まれた単なる地下室に過ぎなかった。前殿、中殿、後殿、左配殿、右配殿の5区画に分かれており、後殿に万暦帝と皇后、妃が葬られていたらしいが、おそらく各区画を華やかならしめていたであろう数々の装飾品はすべて陳列館に収められてしまっている。この中での撮影は禁止されているが、もし撮影したところで何もない地下室の中できょろきょろとあたりを見回す観光客の群れが映るだけであっただろう。いや、ひょっとするとそうした観光客の背後に、眠りを覚まされた万暦帝と、暗愚な皇帝への殉死者となったあまたの女官や宦官の姿が浮かび上がってくるかもしれないが…。

定陵前にて
定陵前にて
地下宮殿入場券
地下宮殿入場券

熊猫!

 市内に戻り夕食のため長安街へ赴く。北京に来たらこれを食わねばならない北京ダックに舌鼓を打ち、大型店の集まる西単地区をうろつく。西単商場というデパートの地下のおもちゃ売り場で仲本氏はゆうに一抱えもあるパンダのぬいぐるみを前にうろうろしていた。さすがにあんな大きなパンダを日本まで持ってかえるつもりはないだろう…。自分の買い物をしてからまたおもちゃ売り場に戻ったとき、仲本氏がぬいぐるみの前にいないのを見て少し安心する。「やあ、さすがにあのパンダはあきらめたの?」「…いや、いま包装してもらっているところですよ」。240元 (日本円で4,000円弱)のジャイアントパンダはすでに包装されてカウンターの上に置かれていた。しかも紙包みではなく中身の見える透明なビニール袋の中におさまって。

夜の西単
夜の西単
「熊猫」と仲本氏
「熊猫」と仲本氏

 それから僕とパンダを抱えた仲本氏は二軒目の餐庁 (レストラン)に行ったが、店員やお客が「熊猫 (ションマオ)!」「熊猫!」(「パンダ!」「パンダ!」)と口々に言うのが聞こえる。パンダを隣の椅子に座らせた仲本氏は「羨ましいんだよ」と言いながら悠然とビールを飲んでいる。やがてかなりへべれけに飲んだ僕らはかなりご機嫌でホテルに帰還したが、ロビーにいた人々からもまた「熊猫!」「熊猫!」の笑い声。部屋に戻って気づいてみれば、いつの間にか僕らの部屋は、前門や西単や万里の長城や明の十三陵や、北京各地のお土産屋で購入したパンダのぬいぐるみやら置物やら敷物やら小物やらであふれかえっていた。

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