YAGOPIN雑録

世界あくせく紀行

「浦東新区」遠望

● 上海・北京編・3


夜行快速北京行

 「上海→北京 K22次 1998年04月16日 19:41開 10車030号 上舗 全价433.00元 新空調軟座直特臥 限乘当日当次車 中途下車失效」

 パスポートといっしょにしまっておいた切符を取り出して駅に入った。白い車体に青と赤のラインを入れた軽快な印象の客車が7番ホームにとまっている。10号車の入り口に立っている乗務員に切符を渡すと代わりに「換票証・軟臥12」と書かれたプレートを渡される。中国の列車では硬座が普通車、軟座がグリーン車、硬臥がB寝台、軟臥がA寝台にあたるのだが、この列車では硬臥は3段式寝台、軟臥は2段式寝台が2つ向い合った4人個室になっている。仲本氏が下段の9番、僕が上段の12番で、10番と11番には中国人のビジネスマン風の男性が陣取った。なぜか上段に上るはしごがついていないことを除けば日本の寝台車とそれほど違いがないように見える。車両の端には洗面所と車掌室と汚いトイレがついている。

切符。北京駅で左端をちぎられた。
切符。北京駅で左端をちぎられた。
快速北京行き
快速北京行き

 列車が動き出してまもなく仲本氏が「餐車 (食堂車)」へ行こうと言い出した。僕は新幹線の食堂車にも行ったことがなかったし、外国でも食堂車を使ったことがなかったので、食堂車に行くこと自体これがはじめてである。食事はもうさっき済ませてしまったのでビールを頼む。水色のカーテンにピンク色の造花、と若干チープな感じではあったが、中国国産の「燕京ビール」に酔わされた目には、それがまた旅情をかきたてるようにも思わせる。

 僕らの乗った列車は「快速」で日本でいうなら急行列車に相当する。特急は「特快」というが、上海と北京を直接結んでいるのは2本の快速列車があるのみである。目が醒めたのは朝6時ごろ、2つ目の停車駅である済南駅にとまるところだった。黄河を見たいと思い、ひとり個室を出て通路に出る。土色のレンガの家々が並ぶ済南市街を抜けると広漠とした大地が広がる。緑に覆われあるいは黒い地面を露出した農地が整然と広がっている。近くには家もなく人影ひとつ見当たらないのに人が耕したあとだけが延々と続いている。はるか遠くに木々が並んでいるのが見えるがその向こうは朝もやにさえぎられて何も見えない。改めて自分はいま大陸にいるんだということを思い知らされる。黄河かもしれない河は何本も越えたが、思い描いていたような「大」黄河にはついに出会えなかった。しばらく起きていたがあきらめてまた布団にもぐりこむ。

とりあえず宿を探す

 北京到着は10時49分だった。上海・北京間1,463kmを15時間で走りとおしたことになる。平均時速約100km/hということはかなりのスピードで走っていたはずだが、乗り心地は良かった。降りる前に車掌に「換票証」と切符をまた交換してもらい、荷物をまとめて列車を降りる。出口へ向かう人の流れに乗って駅を出ると、上海駅と同様に駅前は人でごった返している。比較的すいた空間を見つけて地図を広げ今後の行き先を決める。

車窓風景
車窓風景
北京駅到着
北京駅到着
北京駅
北京駅
北京地下鉄環状線
北京地下鉄環状線

 仲本氏はとりあえず地下鉄で「前門」へ行こうと言い出した。仲本氏の方向感覚のいいかげんさは経験的によくわかっているところだったが、かといってほかに知っている場所もなかったので今回ばかりはおとなしく仲本氏に従う。しかしいきなり反対方向の地下鉄に乗ってしまうあたりやはりあてにならない仲本氏なのであった。

 北京はかつて燕京と呼ばれ、戦国七雄の一国である燕の都であった場所である。金の海陵王の時代に都とされて以後、元・明・清の各王朝に引継がれ、明初と中華民国時代に南京などに首都が置かれた時期があるにしても、ここ700年ほど中国の首都の地位を保っている。現在の北京の中心市街は明の時代に造られたものを基礎としているのだが、明時代の北京は、皇帝の住む紫禁城を中心に南北約5km、東西約7kmの城壁で取り囲まれていた。現在では城壁は取り払われてその地下に地下鉄の環状線が通っているが、その各駅には昔の城壁の門の名前がついているところが多い。北京駅の次が崇文門、その次が前門である。前門は正式には正陽門といい、北京の正門にあたる門である。地下鉄の前門駅を降りて振返ると10階建てくらいのビルに相当しそうな巨大な門がたっている。ねずみ色のレンガで積まれ、屋根もねずみ色っぽい瓦で葺かれているが、窓周りなどは白く装飾されており、上のほうは青や赤で彩色がほどこされている。しかし実はこれは前門ではなく、その前に立っている「箭楼」である。箭楼とはすなわち都の正門である前門を守るための矢倉であって、よく見れば箭楼の後ろにもうひとつ、同じような格好をした本当の前門が立っているのが見えるのである。

箭楼。この向こうに同じような形をした前門がある。
箭楼。この向こうに同じような
形をした前門がある。
前門付近の横丁
前門付近の横丁

 この前門、いや箭楼の前の通りは前門大街といい、北京の中でも庶民的な繁華街になっている。おみやげ屋が多いところを見ると完全に観光化されているのだろうが、裏通りへ入るとごたごたとした細い通りの両側に、衣料品を中心にさまざまな品を並べた店が建ち並んでたいへんな賑わいを見せている。仲本氏はこういうところへ来るといても立ってもいられない性質らしく今にもその雑踏のなかへ飛び込みかねない勢いだったが、この大荷物の上にさらにおみやげでも買い込まれてはたまらないのでホテルを探すのが先決先決、と仲本氏をせかす。実は仲本氏が前に泊まったホテルが近くにあるというので前門で地下鉄を降りたのだったが、やはり地図で見てみるとそのホテルはぜんぜん見当違いのところにあり、しかたないからバスに乗ることにする。仲本氏が前に中国に来たときにはどういうふうに行動していたのかとても知りたいと思う。

 白地に赤い帯を入れた2両連接のバスはすし詰め状態だった。すし詰めといっても江戸前寿司のすし詰めではない、バッテラの折り詰めのごとく身動きできる空間のまったくないすし詰めだった。体温と体臭が立ち上ってはうずまいているこの空間の中でわずかに天窓が開いているのが唯一の救いだった。隣にいた小さなじいさんが何事かを話しかけてきたのだが当然なにを言っているのかわからないので、とりあえず「リーベン (日本)」と言ってみる。どうも的外れだったようで不思議そうな顔をされたがフォローのしようもなかった。揉まれて押されて流されるうちにいつのまにか仲本氏と離れ離れになり、降りる場所が伝えられないのでやむをえず終点まで乗ってしまう。終点まですし詰めのままだったが、よく見るとすぐ後ろを同じバスがついてきており、そっちはがらがらなのを見て脱力する。宿へは終点のバス停からでも歩いて5分くらいで行けた。

北京での最初の晩餐

 もうお昼である。荷物を置いて一服してからすぐにまた前門へと向かう。前門前広場の一角にはケンタッキーやマクドナルドなどのファーストフード店が並んでいるが、そのひとつの「卡巴」という店に入る。卡巴はKebab、牛や羊・鶏などの肉をあぶったものをキャベツやトマトなどとともにピザのような生地でまいたものである。たぶんトルコ料理のケバブと同じものだと思うのだが、店の案内には「卡巴 (KEBAB)食品、源于中東、早在十三世紀已成為蘇丹 (SULTAN)王朝的宮廷美味」と書かれていた。そろそろみやげのことが気にかかり出したのでので、腹がふくれてから前門大街をぶらぶらする。前門大街にはみやげものの店がたくさんあり、パンダの絵のついた木のしおり、極彩色の玉、まがいものっぽい毛沢東バッジ、万里の長城のTシャツ、そのほか何に使ったらいいものかわからないような、いかにも二束三文のがらくたがずらりと並んでいるが値札はどこにもついていない。ようするに値段は交渉で決めろということで既に隣の仲本氏は「りゃんがー、いーばいこわい (二個で100元)」などと始めている。結局、日本に帰ってからばらまいたおみやげのかなりの部分をここで仕入れてくることになったのだが、しかし、いちばん最初よくわからないうちにどうでもいいような風水盤を1000円近くも出して購入してしまったことはこの旅で最大の不覚であった。

 仲本氏はカメラを借りた女の子へのおみやげといって50cmくらいの大きさのパンダのぬいぐるみを買っていたが、まだそのくらいの大きさでは少し不満なようであった。お互い荷物が増えたので一度ホテルに戻り荷物を置いてまた町へ出る。そろそろ夕飯を食べようと思うのだが、今度は前門ではなく虎坊橋というところでバスを降りた。虎坊路と珠市口西大街という大通りの交わっている場所で、明るい通り沿いには種々の店が建ち並んでいる。しかし「胡同」と呼ばれる路地に迷い込むと細く折れ曲がった道の両側に黒ずんだレンガの家々がひしめき、古来の中国の都市の在り方を思わせる。中国の都市といえば古代の長安のように方形に仕切られた幾何学的な城市を想像してしまうが、実際の北京はこうしたうねうねと続く生活感にあふれた胡同の集合体であると言える。

前門付近にて。スタンドで売られている雑誌には「友坂理惠」「广末涼子」の文字が…。
前門付近にて。スタンドで
売られている雑誌には
「友坂理惠」「广末涼子」
の文字が…。
とある胡同
とある胡同

 日が暮れてなお明るい表通りに戻り夕食をとるために一軒の店に入った。魚の揚げたものに、ほうれん草を炒めたもの、りんごのサラダ、イカとニラとニンニクの入った鉄鍋、…残念ながらどれもそれほど美味しいものではなかった。店を出て通りを歩いていく。ゲームセンターの中には日本の中古らしいゲーム機が並んでいる。その隣の舞踊庁という建物の前で踊っている人がいる。仲本氏はまだ満ち足りぬようで二軒目の夕食に四川風のしゃぶしゃぶのようなものを出している店に入った。四川料理は北京・上海・広東と並ぶ中国四大料理のひとつで、その特徴は料理の辛さにある。また中国では「南淡北咸東酸西辣」という表現も使われ、これは「南は薄味、北は濃い味、東は酸っぱく、西の四川料理は辛い」という意味である。このしゃぶしゃぶは鍋の中に猪肉や白菜・きくらげなどを入れて食べるシンプルなものだが、鍋の中は鉄板でふたつに仕切られており、左は透明なスープ、右は四川料理らしくいかにも辛そうな真っ赤なスープになっている。辛いもの好きという仲本氏はどさどさと真っ赤な方に肉や野菜を突っ込んでいったが、煮えた肉を口にした瞬間、動きが止まった。僕も一切れだけ口にして、そしてすぐに吐き出した。…辛い。などという生易しいものではない。もはやこれは辛さを超えた一種の毒味である。慌ててお茶を流し込んだが、このお茶は梅干のようななぞの物体が浮かんだもので、これがまた奇妙に甘い。見ると仲本氏は右の真っ赤な鍋のほうに入れた肉や野菜を今度は左側の透明なほうの鍋に移しかえ始めた。真っ赤に染まった肉や野菜が中に入って透明なほうの鍋もまた真っ赤に染まり出す。きっと元は普通のしゃぶしゃぶだったはずの左側も見事に四川風激辛しゃぶしゃぶへの変貌を遂げ、結局、僕らはその地獄のような鍋を見つめながら甘ったるい謎のお茶をすするしかなくなってしまったのであった。

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