YAGOPIN雑録

世界あくせく紀行

「浦東新区」遠望

● 上海・北京編・2


at 10:30 p.m.

 仲本氏が小腹がすいたというので僕らは夜の町に出た。向かいにコンビニらしき店があるので入ってみる。なんとなくがらんとした印象ではあるけれども確かにコンビニだ。安っぽい柄のついたボールペンとシャープペンシルを買うと、袋には「百式便利店・日本森永系列」と書かれていた。

 交通のほとんどない暗い通りを斜め横断し飲食店を探していると「中申酒家」という看板が目に入った。夜10時半。店内は暗く、どうみても営業していないような感じだったが、仲本氏は臆せず店の扉を開けた。

 客は誰もいなかった。奥の方に店員らしき数人が談笑している。僕らに気づいたウエイトレスがメニューを持ってやってきた。まだ料理を出してくれるようだったが、仲本氏の指差すメニューはことごとくできないと言われ、麻婆豆腐と餃子ならよいということになった。ほどなくして出てきた辛い麻婆豆腐をつまみに「百咸啤酒=バドワイザー」を飲む。誰かの澄んだ歌声が聞こえ出した。さっきのウエイトレスが歌っているらしい。しばらくそれを聴いていた仲本氏は突然、「これが中国ですよ」と言った。仲本氏が何を指して中国と言ったのかはわからなかったが、「中国」は悪い国ではなさそうだった。勘定もわずか40元 (約600円)で済んだ。

長陽路

 けたたましいクラクションの音で目が醒めた。寝呆け眼で窓際までぺたぺたと歩き、下をのぞいて少なからず驚いた。昨晩の真っ暗な、目鼻立ちのぼやけた町並みは、異国の朝の喧騒へと変わっていた。建設中のものも含め殺風景な高層マンションとアパート群の立並ぶなか、多くのバイクと自転車と、ときおり2両連接のトロリーバスと紅色のフォルクスワーゲンのタクシーが通り過ぎていく。さっそくチェックアウトして僕らもその異国の喧騒の飛入り参加者となる。激しい交通の中、横断歩道でもなんでもないところを腰の曲がったおばあさんがひょこひょこと渡っていく。びーびーとたえずクラクションが鳴り響き、ろくに信号機もなく、交通秩序はまったくないように見えるのに、平然と道路を渡り終える。幾重ものシステムに守られた交通秩序を持つ国から来た僕にはとても危険な光景に見えるが、しかし車の速度は概して遅く、案外に重大な事故などは多くないのかもしれないなどとも思えてしまう。長陽路というその道はプラタナスの綺麗な並木がずっと続いているが、並木に沿ってやたらに洗濯物も目につく。アパートの2階や3階から通りに向けて突き出された物干し竿に色とりどりの洗濯物がかかっており、ガードレールにはずらっと布団が干してある。バス停にジーンズがぶらさがっているのも目撃した。話には聞いていたがやはり道路に痰を吐く人も多い。道端にあった「上海市民"七不"規範」という看板にも第一番目に「不随地吐痰」と書かれている。

 店の前で包子 (パオズ)(=肉まん)をふかしている湯気がたまらなく美味しそうに見え、そういえば朝食がまだだったなと「田園鶏」という店に入る。包子が予想通りうまかったのに比べると一緒に出てきた「粉熱湯」という厚揚げと海苔と春雨のスープはなんだかいまいちだった。お湯の上にただラー油を落としただけのような味しかしなかったが全部で20元(300円くらい)しかしなかったのだからこの際文句は言うまい。仲本氏はさらに「シュピー」を注文したが、一度では店員に通じず二度三度言ってやっと通じた。「発音が難しいんですよ」と仲本氏の言うシュピーとは「雪碧」すなわちスプライトのことだった。さほど広くもない店内を見渡すと、客がいるにもかかわらず店員がしきりに掃除をしていて、どうりでこざっぱりとした感じの店である。痰を吐く人が多いように汚すのも好きな国民だが、そのいっぽうで掃除をするのも好きな国民だなと思う。このあと3日ほどこの国に滞在したが、この印象は最後まで変わらなかった。

 店を出てさらに長陽路を歩いていく。大きな工場があってその玄関に「上海豊田織機服務中心」などと書かれているのを見かける。遠くに楊浦大橋がかかっているのが見える。そろそろくたびれたのでバスに乗る。おそろしく揺れるバスで、大した速度も出していないくせにあちらこちらでがちゃんがちゃんばたんばたんと金物屋が大地震にでも遭ったような音がしている。運転手はぶーぶーびーびーとクラクションを鳴らしつづけながら自転車と荷車と自動車と歩行者の流れを乗り切っていく。ぶーぶーがちゃんがちゃんびーびーばたんばたん、とさまざまな騒音に囲まれながら終点までバスに揺られると、そこは「外白渡橋」だった。

路上にかかる洗濯物。奥に上海大厦が見える。
路上にかかる洗濯物。
奥に上海大厦が見える。
バスから見た上海の様子
バスから見た上海の様子

上海・過去から未来へ

 一般的に水路がT字路になっているところには都市が生まれるという。ボスポラス海峡に金角湾が注ぎ込むイスタンブールなどはその代表例であるわけだが、大河・黄浦江に呉淞江が流れ込むT字路の根元にできた上海もまたそうしたT字水路都市の典型であると言える。そしてその呉淞江が黄浦江に流れ込む直前、道路のT字路だったら「とまれ」の白線のあたりにかかっている橋が、この外白渡橋である。外白渡橋とはすなわち外国人はただで渡れる橋という意味をもつ(諸説あり)。アヘン戦争に敗れた清国が列強と結んだ南京条約によって上海は開港させられ、この外白渡橋の先の黄浦江沿いの地域は「外灘」と呼ばれる租界(外国人居留地)となったのである。

外灘
外灘

 まさに中国の中に忽然と出現したヨーロッパ。租界時代のみならず現代の外灘にもこの表現は当てはまる。それまでのごみごみとした街並は消えうせ、左側には緑多きヨーロッパ式の黄浦公園が続き、右側には重厚な19世紀風の西洋建築が並んでいる。黄浦公園にはかつて「犬と中国人は入るべからず」と書かれた看板が立っていたというが、しかし今はそんな歴史などとうとうと流れる黄浦江の水に押し流されたかのように中国人の家族連れや観光客でにぎわっている。そしてそうした客を目当てに清涼飲料水やアイスクリームなどを売るたくさんの露店が出現している。陳毅という人物の大きな像が立っていて彼は革命の英雄にして上海の市長などを歴任した人物だそうであるが、なんとなく山下公園に横浜市長の巨像が立っているような奇異な感じを受ける。黄浦江の対岸には食いかけの串団子のような形のテレビ塔を中心にたくさんの高層ビルが立並んでいるのが蜃気楼のように浮かび上がって見える。上海を横浜に見たてるのならばこの「浦東新区」はさしずめ、みなとみらい21地区と言ったところだろうが、しかし浦東新区のスケールはみなとみらいの比ではない。この地域は上海市街とは黄浦江によって隔てられていたため長く寒村のままであったのだが、1990年代になって楊浦大橋・南浦大橋の2つの橋で上海と連結された。そしてだいたい大阪市と名古屋市を合わせたくらいの面積にあたる約522k㎡が金融貿易区・出口加工区・高科技園区・現代生活園区などなどと区分されて開発され、ゆくゆくはアジアの金融貿易センターに、という壮大な構想を持ったプロジェクトなのである。都市開発というよりは新しいひとつの都市を創造するというに等しいこのプロジェクトを推進した江沢民・上海市長は現在、中華人民共和国の国家主席になっている。アジア経済危機の影響でややその開発速度は鈍っているとはいえ、これからもこの浦東地区の開発は国家プロジェクトとして引継がれていくのは間違いない。

 上海の未来を予感させる浦東を遠望しつつ、上海の過去を象徴する外灘を離れ、今度は現在の上海で最大の繁華街である南京路へと向かう。色とりどりの看板とやはり色とりどりの服装をした人々の洪水がそこにはある。まだまだ男性のファッションは七三分け・紺のジャケット・くたびれた黒の革靴、といったような画一的で地味なものが大半だったが、女性のそれは日本と比べてもそれほど遜色ないようで、やはりどこでも服飾文化においては女性が男性に先行するものらしい。道路には百式可楽=ペプシコーラのロゴマークがずらりと並んでいて、巨大なラックスシャンプーの広告からは長い黒髪の女性が微笑んでいる。CDショップには中国・香港をはじめ、欧米や日本のCDも棚に並び、日本ほどではないものの携帯電話で話す人たちも時折見かける。真新しい商業ビルの地下に入った麦当労=マクドナルドで超値套餐=バリューセットを食べながら、中国のいわゆる改革開放路線とはこういうものかと感じた。

「浦東新区」遠望
「浦東新区」遠望
南京路
南京路
「麦当労」
「麦当労」
「麦当労」店内
「麦当労」店内

SHANGHAI STATION

 その名の通り上海第一のデパートである上海第一百貨商店まで南京路を歩いていき、そのそばにある人民公園駅から地下鉄に乗る。上海の地下鉄はまだ開通して数年しか経っておらず、路線も1本しかないが、現在、この人民公園駅から西の上海虹橋国際空港と東の浦東新区とを結ぶ2本目の路線が建設中であり、やがてはこの新しい地下鉄が揺れるバスに代わって上海の主要交通機関となるものと思われる。

上海地下鉄
上海地下鉄
バスから見た上海の様子
奥が上海駅

 人民公園駅から3つ目、終点の上海駅までやってきたのは北京へ行く列車の切符を買うためであった。かつて中国の鉄道では外国人は中国人よりも高い料金を支払わなくてはならず、切符の売り場も別になっていた。今では料金は同じになったようだが、以前のなごりで切符売り場はいまだ別々のままである。広い駅前広場には平日の昼ひなかというのにそこらじゅうに人が座り込んでいる。切符売り場らしき窓口は2つしか開いておらず、その窓口の前には遊園地の乗り場のように蛇腹折りになった行列が延々と続いているが、どうもそれが中国人専用の売り場であるらしい。しかし肝心の外国人用の窓口というのはどこにも見当たらず、横に長い上海駅をあっちへ行ったりこっちへ来たり、駅員の指差す方向へ行っては何も見つからずに結局もとの場所へ戻って来たり、挙句の果てにはパスポートを見せて駅の中へ入ったり外へ出たりとしばらく空虚なときを過ごし、やがて途方に暮れる。仕切り直しにお茶でも飲もうかということになり、駅前の「新亜快餐」というカフェテリア風の店で、糯米軟棗と熱珈琲、すなわちゴマをまぶしたこしあん入りの餅とホットコーヒーを頼む。なんだか妙な組み合わせではあるが、そこがいかにも中国である。ついでに隣の交通銀行で両替も済ませる。20,000円が1,239元9角3分になったが1,239元9角しかくれなかった。まあ3分なんて1円に満たない額なのでどうでもよいのだが。

 こうして少しゆっくりしたのが良かったのか、ふたたび駅に戻ると駅前広場の花壇の隅に「龍門賓館軟席售票処(LONGMEN HOTEL SOFT-SEATS BOOKING OFFICE)」と書かれた看板があるのが目にとまった。ホテルの中に切符売り場があるということらしく、半信半疑のまま駅近くにあるその龍門賓館というホテルに行ってみると果たしてそこが外国人専用の切符売り場であったのだった。完全にホテルの中にあるその売り場には3つの窓口が設けられており、1つ目は九竜 (香港)行き列車専用、2つ目は一般、3つ目は団体専用になっている。2つ目の窓口に伝えたい内容を紙に書いて手渡すとあっという間に今晩の夜行列車の切符が発券されてしまう。ガイドブックなどを見ると、中国の発見システムはオンライン化が遅れており駅によっては切符の割当てが少ないため購入が困難な場合がある、余裕を持った行程を組んで早めに予約をすること、などとあったので、2~3日先の切符しか手に入らないことも考慮に入れて急いで切符を買いにきたのだったが、さすがに上海ほどの大都会ではそういったことも少ないらしい。ともあれあまりにあっさりと北京行きが決まった一方で、上海での滞在時間はあと数時間しかないことになってしまった。

人民公園
人民公園
あ、セーラームーンだ…。
あ、セーラームーンだ…。

名品海鮮酒楼

 人民公園まで戻り、上海の町をぶらぶらと歩いているとその数時間はすぐに過ぎ去ってしまった。夜行列車に乗る前に夕食を済まそうということになって駅前の名品商厦というショッピングセンターの4階にある名品海鮮酒楼というレストランに入る。どういうわけかこの店が莫迦に親切な店で、僕らが何を食おうかと迷っていると次々に3人も4人もウエイターやウエイトレスが出てきて口々にいろいろと説明してくれる。そのために余計に混乱したという事実は否めないのだが、結局のところ間違いのなさそうなところでホイコーローと魚のスープを頼み、あと前菜はワゴンに載せて持ってきてもらったものの中から3皿選んだ。ただそのうち前菜の一皿がどうも得体の知れない肉だったので、念のため漢字で書いてもらうと「焼鵝」とのことで、まあ「鳥」がついているならよかろうということになった。仲本氏は白いご飯がないと食が進まない人らしく「米飯」も頼んでいた。

 やがてビールが運ばれ、料理も次々に運ばれてきたが、その中に中身のない肉まんのようなものが一皿あって、どうもこれは注文した記憶がない。さっきから近くに突っ立っていたウエイトレスに尋ねると「餅」と書く。いや、やはりこんなものは注文していない。彼女はさらに「這个□那个餅一起吃(□は解読不能)」と書いたが、相変わらずさっぱり分からない。業を煮やした彼女は箸をとってその「餅」の間にホイコーローをはさんだ。なるほどやっと分かった、そういうことか。

 それをきっかけとして彼女と僕らの間に筆談が始まったのだったが、漢字文化圏の人間だから筆談で何でも通ずるというのは大きな誤解で、中国語の基礎的な知識がないと結局何を言っているんだか何を書いてよいものだかさっぱり分からない。「吃完飲就走了所以来這吃飲、下面要去北京」「我写什麼你伺都不知道」話していた当時でさえ何を言っていたのだか分からなかったのだから、いま手元に残されているメモを見てもなおさらである。しかし、わけがわからないながらも僕らはそのわからない「会話」のそのわからなさをまた楽しみ、最後にはそのウエイトレスと記念写真まで撮ってもらった。

 「請下次再来本店。謝々!」

 メモの最後に書かれたこの文だけは、さすがの僕らにも意味がわかった。

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