YAGOPIN雑録

この町を歩く

合同庁舎6号館赤レンガ棟

● 東京・町の歴史 溜池・2

溜池に有料道路があった?

 明治になると、それまで江戸の人口の半数を占めていた武士のほとんどが江戸を離れ、人口が急激に減ったことにより、赤坂から溜池を挟んだところにある日枝神社及びその門前町の景気も悪くなり、溜池を横断する道を開こうとする動きが出てきた。1872(明治5)年1月23日には日枝前町の加藤喜平次から「日枝神社前町之儀、三拾三間有之、従来近隣旧諸藩邸目的ニテ生活取続来リ候処、追々時勢変遷ニ随ヒ得意出入等之向キ忽廃絶仕今日之形行ト相成、素ヨリ往来迚モ無之極テ不便利之場所柄、殊ニ小商而已之者共甚以難渋差迫、此侭ニテハ次第衰微ニ赴キ終ニ御救助等之儀奉願候場合ニ可立至ハ差向顕然之勢ニ御座候。」として、交通の不便な日枝神社門前の商人を助けるため、日枝神社の「境内下南端ヨリ溜池天満宮下え凡十間位之処」に渡船を許してほしいという願いが東京府役所に出される。現在の場所で言えば、山王下の交差点のあたりにあたる。運営方法は朝7時から夕方6時までの間、小船一艘の往復で、船をつくる費用や船頭の給料などにあてるため「当分一人前渡銭拾五文」を徴収することとしている。

 この願出は1月28日に許可されたが、さらに翌1873(明治6)年の11月には日枝神社の神官であった前田勇平や氏子の炭屋磯右衛門らから溜池に橋を架けたいという願書が東京府知事宛に出されている。その理由は「日枝神社境内ノ儀、前面ハ坂路、南は溜池ニテ僻邑ニ等シキ不便之場所柄困却致候ニ付、溜池ヘ仮橋架渡候得ハ、日夜無差別庶人通行大ニ便利ニ相成ハ勿論、社頭モ自繁昌、説教拝聴等モ猶盛大ニ罷成、敬神尊奉之御趣意ニ基、教化ノ一助共可相成」として、交通を便利にして門前町を繁昌させるほか、国民の教化にも役立つといったことも理由にしている。場所は「当社鳥居西空地より境内迄幅五間突進シ、溜池左右埋立、中央八間ヘ仮橋架橋、夫ヨリ赤坂田街三丁目四丁目之間空地ヘ通路相開キ」と、今の日枝神社西参道を降りた場所、渡船の場所よりはやや赤坂よりの場所であり、やはり「週分之入費払及候ニ付、償却迄ニハ凡九十七ケ月程通行之諸人並馬車、人力車等ヨリ橋銭相受」たいとしている。

 日吉橋と名づけられたこの橋は、木造で長さ8間(14m)、幅3間(5m)。1876(明治9)年1月14日に362円75銭をかけて落成し、人1人1厘5毛、人力車は1輌3厘、車は1輪(1輌と同義か?)6厘、荷馬は1疋3厘の料金を徴収した。この料金設定と償却期間はどうやって決めたのか興味あるところだが、車や馬を度外視すると毎日約80人が通れば97ヶ月で建設費は償却できる。維持費や料金徴収の費用もかかるとすれば、まあ100人くらい通ればいいということだろうか。なお、1878(明治11)年の『東京実測全図(内務省地理局)』には日吉橋とともに渡船の表示もあることから、日吉橋がかかってからも渡船はしばらくは併せて運航されていたようである。日吉橋が97ヶ月後に償却されたのかどうかはわからないが、前述のように明治中期になると水路一本を残して溜池の埋立てが進んだため、1906(明治29)年ごろには残る水路に日吉橋のほか、古吉橋、溜池橋、葵橋が架けられていた。さらに昭和になるころには、その水路もなくなってしまったため、日吉橋もなくなってしまったのである。

 ところで、明治5~6年になって溜池に渡船ができたり橋を架けたりすることになったのは、明治5年に虎ノ門や赤坂門など、江戸城の外郭の守りとなっていた門の門扉が撤去され、自由通行が可能になったことと関係がありそうである。つまりこのころから、それまで重視されてきた江戸城の防備という視点よりも自由通行を許すことにより経済に資するという視点の方が重視されることになったといえよう。またこの時期には、太政官布告(「修路架橋運輸ノ便ヲ興ス者ニ入費税金徴収許可方(明治4年太政官布告第648号)」)により、「険路ヲ開キ橋梁ヲ架スル等諸般運輸ノ便利ヲ興シ候者ハ落成ノ上功費ノ多寡ニ応シ年限ヲ定メ税金取立」が認められ、「有料道路」が制度化されたことも背景にあるようにも思える。もっとも平成9年の地下鉄「溜池山王」駅開業を記念して建てられた「溜池発祥の碑」には「江戸後期には日枝神社より赤坂四丁目に通じる料金をとった賃取橋が架設され「麦とろ家」数軒と出店で、にぎわったと言われる。」と書かれており、既に江戸後期から溜池には橋が架かっていたとされている。確かに永代橋など江戸時代にも料金をとる橋はあったのだが、しかし、ほんとうに江戸後期に溜池に橋がかかっていたのかどうかは古地図などからは残念ながら確認できなかった。

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