YAGOPIN雑録

この町を歩く

合同庁舎6号館赤レンガ棟

● 東京・町の歴史 霞ヶ関・3

霞ヶ関はどのようにして官庁街となったか

 2000(平成12)年現在、東京都千代田区霞が関には、ほとんどの中央官庁が集まっている。国家行政組織法第3条に規定がある、いわゆる「三条機関」1府12省8委員会25庁で見ると、霞が関にないのは、総理府、公害等調整委員会、沖縄開発庁(以上、千代田区永田町)、自治省、消防庁(以上、港区虎ノ門)、中央労働委員会(港区芝公園)、宮内庁(千代田区千代田)、防衛庁、防衛施設庁(以上、新宿区市谷本村町)、気象庁(千代田区大手町)くらいである。2001(平成13)年1月6日からの中央省庁再編によっても、若干の庁舎の移動があるだけで、この霞が関一極集中傾向には特に変化はない。

 ところが、これら諸官庁は、最初から霞が関に集中していたわけではない。1878(明治11)年に内務省地理局が作成した『実測東京全図』によるとその当時、現在の霞が関に所在していたのは外務省のみで、そのほかの官庁は、太政官及び宮内省=赤坂離宮(現・迎賓館及び東宮御所)内、大蔵省及び内務省=大手町(現・三井物産本社等)、陸軍省=永田町(現・憲政記念館等)、海軍省=築地(現・中央卸売市場)、司法省=丸ノ内(現・東京駅)、文部省=一ツ橋(パレスサイドビル等)、工部省=虎ノ門(現・JTビル、虎の門病院等)といったように江戸城周辺のあちこちに散らばっていた。これらはすべて酒井家(大蔵省・内務省)、井伊家(陸軍省)などの空いた大名屋敷をそのまま利用したものであり、明治もかなり早いうちから一箇所に官庁を集めようとする計画はあった。1870(明治3)年に金沢藩主前田侯から太政官新築費用の一部を寄進する申出があり、現在の皇居外苑に古式にならった官庁街を新築する計画が立てられたり、1873(明治6)年に皇居及び太政官が炎上したことをきっかけとして旧江戸城本丸に官庁を集中させることが企画されたりしたのがそれである。しかし、現在の霞が関を官庁街とする計画が本格的に始まるのは明治10年代半ばになってからのことである。

 1885(明治15)年に東京府知事に就任した芳川顕正は、東京を近代的な都市とするため、「市区改正計画」と呼ばれる都市計画の立案にとりかかっていた。その原案というべき「市区改正意見書」(1884(明治17)年)では、道路や鉄道といった交通計画の他に、皇居前広場・大手町・丸ノ内・日比谷を官省地に、霞ヶ関は邸宅地にするという用途地域制が考えられ、各省庁、東京府及び渋沢栄一ら経済界代表で構成される市区改正審査会の審議においては、大手町や丸ノ内は町地とし、日比谷と北の丸公園を官省地とするような議論がなされていた。この市区改正計画は内務省を中心に作業が進められていたが、一方でこの頃、外務省では不平等条約改正のため、日本を欧米並の国と見せる欧化主義政策が推進されており、鹿鳴館に続いて欧風の官庁街を建設しようとする「官庁集中計画」が井上馨外務卿(のち外相)を中心にまとめられていた。かくして1885(明治18)年、市区改正計画と官庁集中計画は正面から衝突し、官庁集中計画を実施する臨時建築局の設置が認められたことで市区改正計画の方は棚上げになってしまう。井上は、ドイツ人建築家ヘルマン=エンデ及びヴィルヘルム=ベックマンを雇い、エンデ、ベックマンは、銀座に中央駅を置き、大通りで霞ヶ関の官庁街、さらに永田町の国会議事堂へとつなぐという壮大な計画を作り上げた。この計画は、この後、紆余曲折を経て、日比谷練兵場跡地(現在、法務省、農水省等のあるブロック及び日比谷公園)に官庁街を設置する計画に落ち着くが、これが、霞ヶ関を官庁街とする最初の計画と思われる。

法務省赤レンガ庁舎
法務省赤レンガ庁舎

 しかし、1887(明治20)年になると、条約改正交渉の破綻、井上外相の辞任により、主目的を失った官庁集中計画は砂楼のように崩壊し、市区改正計画が逆転復活することとなる。ただ、官庁の位置配置についてだけは官庁集中計画の案がとりいれられ、日比谷から霞が関にかけてを官庁街とすることとなった。エンデ、ベックマンは無給でいいから計画を続けさせてほしいと政府に嘆願したが聞き入れられず、既に建築にとりかかっていた司法省及び大審院庁舎のみが1895(明治28)~1896(明治29)年に完成する。これにイギリス人コンドル設計の海軍省庁舎(1894(明治27)年、現在の農水省の位置に完成。)と元からある外務省を加えて、ようやく官庁街らしいものが霞ヶ関に誕生した。

建設中の合同庁舎新2号館と解体される旧内務省庁舎
建設中の合同庁舎新2号館と
解体される旧内務省庁舎

 さらに関東大震災後に内務省、大蔵省、文部省及び会計検査院の庁舎が次々に霞ヶ関に移り、戦後はGHQの指導に基づく官庁の合同庁舎化により、中央合同庁舎一号館(1957年)、三号館(1966年)、四号館(1972年)等が建てられた。近年では庁舎の高層化が進んでおり、通産省、中央合同庁舎五号館、六号館A棟、B・C棟に続いて中央合同庁舎二号館も使われ始めたが、霞ヶ関の庁舎は皇居を見下ろすことのないよう軒高100mの高さに抑える方針のようである(『建設省50年史』)。また、1994(平成6)年にはエンデ、ベックマンの忘れ形見である旧司法省庁舎が約100年の時を経て往時の姿に復原された。往時の姿といっても、内部は史料館等のほか法務省の庁舎としても使われており、エレベーターも設置された現代的なオフィスになっている。さらに裏の広場にはかつての官庁集中計画の地図が大きく描かれており、幻に終わった計画がわずかばかり実現したかのように思わせる。しかし、エンデ、ベックマンの計画の一部として司法省庁舎と並び建っていた大審院庁舎は、最高裁判所庁舎としても使われたのち、1974(昭和49)年の新庁舎完成により解体され、高層の裁判所合同庁舎に建替えられてしまった。

 霞が関地区は1958(昭和33)年に「霞が関一団地の官公庁施設」として都市計画決定されている。しかし1992(平成4)年に「国会等の移転に関する法律」が公布されたことにより、国会と、その活動に関連する行政、司法の中枢に関する機関の東京圏以外への移転の検討を行うとされており、今後の動向が注目される。

(この項目は、2000年11月に書かれました。)

前へ ↑ ホームへ  次へ
霞ヶ関(  3) 溜池(