YAGOPIN雑録 この町を歩く 合同庁舎6号館赤レンガ棟
 
 ● 東京・町の歴史 霞ヶ関・1
「あづま路の霞ヶ関」はどこにあったのか
 

 「霞ヶ関」といえば今は中央官庁街の代名詞だが、かつては、「霞ヶ関」といえば歌枕。14世紀の新拾遺集に載っている「徒らに名をのみとめてあづま路の霞の関も春ぞくれぬる(読み人知らず)」など多数の歌に詠まれている地として有名だったという。しかし、歌に詠まれている「霞の関」が、今の官庁街の「霞ヶ関」の場所にあたるかについてはやや疑問があり、ここが歌枕の「霞ヶ関」である、という候補地は他にも何箇所か存在している。以下にそれぞれの候補地を検討してみよう。

霞が関坂。左に浅野家、右に黒田家の屋敷があった。 まず、官庁街の東京都千代田区霞が関だが、江戸の代表的な地誌である『江戸名所図会』を見ると、「霞関の旧蹟」の項に「桜田御門の南、黒田家と浅野家の間の坂をいふ。往古の奥州街道にして、関門のありし地なり。」とある。黒田家は現在の外務省庁舎、浅野家は現在の中央合同庁舎2号館及び3号館の敷地にあたり、今、その間の坂に「霞が関坂」の表示、中央合同庁舎2号館の前にも「霞が関跡」の表示がある。江戸時代にはこの場所が「霞ヶ関」であるということが周知の事実だったようで、既に1693(元禄6)年の地図には黒田家と浅野家の間の坂に「霞ミかセきと云」という表示があった。それから140年も経った1832(天保3)年に書かれた『江戸名所図会』が、特に何の史料も引用せず「桜田御門の南、黒田家と浅野家の間の坂をいふ。」と断言してしまっているのは、もう天保年間にはその場所が「霞ヶ関」であることについて何の説明も必要なくなっていたということなのだろう。しかし逆に言えば、その場所が昔から「霞ヶ関」だと言われていたという事実のほかに何の有力な証拠もないと考えられ、たとえば1935(昭和10)年に東京市麹町区役所が出した『麹町区史』などでも「古歌に詠ぜらるゝ東路の霞ヶ関が果してこれであるか否かは遽に断定し難い。」としている。

 次の候補地は、現在の東京都新宿区霞岳町(国立競技場・絵画館一帯)またはそのすぐ北にある四谷大木戸(現在の四谷四丁目交差点付近)である。角川書店『日本地名大辞典』の「霞の関」の項に「古く霞村といい、奥州街道の関屋があったことにちなむ。旭の関ともいったが、その由来は不詳。現行の霞岳町一帯。現在の国立競技場の地に霞の松、または遊女の松と称した名木があった。」。また、『江戸名所図会』の「四谷大木戸」の項に「土俗いふ、『霞が関あるいは旭の関ともいふ』とぞ。(家康)御入国の頃までは、この地の左右は谷にて一筋道なり。この関にて往還の人を糾問せらる。」、同じく「遊女の松」の項に「相伝ふ、この地は往古の奥州街道にして、広豁の原野なりしに、この松樹の鬱蒼として栄茂し、遠く見え渡りしゆゑに霞の松と号(なづ)けしが、」といった記述がある。四谷大木戸跡の近くに「霞関山太宗寺」という寺院があるのも、これらの由来によるものと思われる。ただ、よく読むと『日本地名大辞典』は、「霞の関」について、この地を南北に貫いていたと思われる奥州街道の関屋のこととし、『江戸名所図会』は、「霞が関」を東西に走る甲州街道の四谷大木戸のこととして、奥州街道から見える「霞の松」の話とは別にしている。どうも「霞ヶ関」と四谷大木戸を結びつけるのは短絡的な気がするので、これは奥州街道の関屋につけられた名前と考えるのが相当であるような気がする。

 さて、3箇所目は少し離れて埼玉県狭山市下広瀬にある。ここは狭山市となる以前には柏原村と呼ばれており、『新編武蔵国風土記稿』に「柏原は往古信濃より鎌倉への往還にて今は信濃街道と唄ふ。此處に霞ヶ関と称する名所あり、その小坂の上に古へ関所ありける由、」云々と書かれているという。柏原村は、1884(明治17)年に笠幡村、的場村、安比奈新田村と合併し、この「霞ヶ関」の名をとって「霞ヶ関村」となった。ところが1889(明治22)年に霞ヶ関の所在地である柏原村は霞ヶ関村から分離独立してしまい、しかし残りの3ヶ村は依然として霞ヶ関村を名乗り続けたため、霞ヶ関村には霞ヶ関がないという事態が生じてしまった。この霞ヶ関村のあった場所に現在も東武東上線の霞ヶ関駅があり、霞ヶ関団地などもその近くにはあるが、これらがその由来となった霞ヶ関とはかなり離れた川越市内に存在しているのは、こうした経緯によるものである。

多摩市にある霞ヶ関比定地 最後は、東京都多摩市関戸(京王線聖蹟桜ヶ丘駅付近)である。「『関戸』の町名は、かつて関所が設置されていた所からこの名がついたといわれています。この関は一般に『霞ノ関』といい、吾妻鏡によれば建暦3年(1213)『武蔵国に新しい関を置く』とあります。現在、熊野神社境内に南木戸柵跡があります。」と多摩市九頭竜公園脇の案内板(多摩市設置)には書かれていた。1903(明治36)年吉田東伍著の『大日本地名辞書』に「霞ヶ関とは(中略)名所方角抄、回国雑記に参考すれば府中(多摩郡)の辺なること明白なれば、今の関戸小山田の地に外ならず。」、また1938(昭和13)年東京市企画局都市計画課編纂の『東京市町名沿革史』にも「霞ヶ関は此外多摩郡関戸村にも其遺趾なりと称するところあり、四谷大木戸を遺址なりと言ふ説あるも、未だ孰れが是なるを知らず。而して廻国雑記に道興准后が『あづま路の霞の関に年こえば我も都に立ちぞかへらむ/都にといそぐ我をばよもとめじ霞ヶ関も春をまつらむ』と歌ひたるは、多摩郡府中に近き霞ヶ関を歌ひたるものに似たり。」とあり、どうもここが霞ヶ関の最有力候補のようである。ともに15世紀に書かれた『名所方角抄(宗祇法師)』、『廻国雑記』の記述がその根拠となっているようだが、これらは「千代田区霞が関」説をとっている『江戸名所図会』も引用しており、同じ出典から別々の場所が導かれていることになる。

 以上、さまざまな地名事典やら地誌やらを片っ端から引いていくと、千代田区霞が関、新宿区霞岳町、狭山市下広瀬、多摩市関戸の4箇所が「霞ヶ関」の候補地であるらしいということがわかる。しかし、それぞれの地名事典なり地誌なりがそれぞれどういう史料や伝説をどのように取捨選択しているのか、それぞれがどういう相関関係にあるのかがいまひとつ明確でないので、どれが正しいのか素人の私には判断がつかない。ただ、その由来については、鎌倉から奥州ないし信濃に向かう鎌倉街道(奥州街道、信濃街道も同じ。)の関門なり関屋なり関所なりがあった場所であるとしている点はほぼ共通しているようである(もっとも、1736(元文元)年の『武蔵野地名考』に「日本武尊(ヤマトタケルノミコト)蝦夷の儲関なり。」とする突拍子もない説があるほか、前記のように甲州街道の四谷大木戸に比定する説もある。)。確かに関戸から狭山に向かっては上つ道と呼ばれる上州(群馬県)・信濃(長野県)方面への鎌倉街道が通っており、また、霞岳町付近にも下野(栃木県)方面へ向かう中つ道と呼ばれる鎌倉街道が通っていたことが知られている。しかし千代田区霞が関を鎌倉街道が通っていたという話は聞いたことがなく、そもそも家康入府以前には、霞が関坂を下りた先の日比谷公園のあたりは海だったことを考えても、官庁街の霞が関が中世の歌枕の「霞ヶ関」であるというのはどうも怪しいなという気がする。まあ、それぞれの場所を歩いてみて、また『廻国雑記』などをちょっと読んでみてから、どこが正しいのかまた考えてみようと思う。

(この項目は、2000年11月に書かれました。)

 
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