YAGOPIN雑録

この町を歩く

合同庁舎6号館赤レンガ棟

● 東京・町の歴史 霞ヶ関・2

「霞ヶ関」は外務省の俗称?

 前に記したように「霞ヶ関」といわれる場所の両側には、安芸広島藩浅野家と筑前福岡藩黒田家の上屋敷が対峙しており、「安芸と黒田は不仲ぢゃすまぬ、花のお江戸ぢゃ軒ならび(参覲道中長持唄)」などと唄にも唄われた。また、浅野家の門が朱塗りの門であり、黒田家は黒い海鼠壁の長屋が続いていたことから「関一つ安芸筑前の国ざかひ安芸様は赤し勿論黒田様」、両家の石高を足すと百万石に近くなることから「小百万石も霞の中に見え」ともいわれた。そのほか、霞ヶ関周辺には、法務省の北半分に上杉家(米沢藩)、通産省別館の場所に真田家(松代藩)、弁護士会館のところに大岡越前の子孫である大岡家(西大平藩)など各大名の上屋敷が置かれており、大岡家の屋敷の庭石や手水鉢や石灯籠は、名奉行大岡越前にあやかって現在も法務省北側の植込みに残されているという。

 大手町、丸の内、日比谷、皇居外苑から霞が関、永田町に連なる一帯は、大名屋敷が集中している地区であるが、地図をよく見ると、江戸城に最も近い大手町、皇居外苑は譜代で固め、外様大名は、その外延の丸の内や霞が関などをあてがっているという傾向があるようである。前田家(金沢藩)が本郷、島津家(鹿児島藩)が三田、伊達家(仙台藩)が汐留という具合に、大藩が江戸城から遠い場所を拝領していることを考え合わせると、どこか江戸の大名屋敷の配置は、国内における大名の領地の配置と同じ思想によっているようにも思わせる。(ただし、伊達家の屋敷は当初、現在の日比谷公園の北半分、前田家の屋敷は大手町にあり、1657(明暦3)年の明暦の大火以降にそれぞれ、汐留、本郷へ移転したものである。その後、伊達家の屋敷跡は甲府藩主・徳川綱重(6代将軍徳川家宣の父)の屋敷となった。)

 明治維新を経て、大名屋敷のうち藩の公邸及び大名の私邸となる2箇所を除くものが「上知」(政府による没収)となると、上杉家上屋敷など桜田通りより東側の大名屋敷は日比谷練兵場の一部となり、浅野家上屋敷は兵営に、黒田家上屋敷の西半分(現在の国会前庭)は有栖川宮邸に、大蔵省のある一角はロシアやイタリアの公使館に、文部省や会計検査院のある一角は工部大学校(現在の東京大学工学部の前身)の敷地に利用された。外務省が黒田家上屋敷の東半分を利用して現在地に置かれたのを除けば、明治初期の霞が関には中央官庁以外のさまざまな施設が雑然と並んでいたことがわかる。その他の中央官庁は、内務省や大蔵省が大手町の旧姫路藩邸に、文部省が同じく大手町の旧小倉藩邸に、陸軍省が丸の内の旧鳥取藩邸に、工部省が虎ノ門の旧佐賀藩邸に、といったようにあちこちに散らばっている。広辞苑で「霞ヶ関」を引くと2番目に「『外務省』の俗称」とあるのは、まさに外務省が現存する官庁ではもっとも古くから霞ヶ関を本拠にしていた官庁であることを示すものである。また、明治時代に「霞ヶ関」という町名が生まれたときには、現在の外務省、農水省などのあるあたりがその範囲であって、それより北側の合同庁舎2・3号館のある区画は「外桜田町」、南側の大蔵省や文部省のある区画は「裏霞ヶ関」「三年町」などと呼ばれていた。そうしたことからも、外務省が現在の官庁街・霞ヶ関の核となっているということができると思う。(「霞が関」という町名が現在の範囲となったのは1967(昭和42)年のことで、同時に町名としては「霞ヶ関」から「霞が関」へと変更になっている。)

現在の外務省庁舎
現在の外務省庁舎

 さて、霞ヶ関がどうして今のように官庁街となったのかについては別項に譲るとして、ここでは、霞ヶ関の中心をなす外務省の敷地について書いてみたい。外務省が設置されたのは1869(明治2)年7月8日の「職員令」による。その2ヶ月前の5月15日に神祇官、会計官、軍務官、外国官、刑法官、民部官の6官が置かれており、それを改めて民部省、大蔵省、兵部省、刑部省、宮内省、外務省の6省が置かれたのである。黒田家の敷地は「明治三年黒田邸址を民部省用地及三条実美の邸とし、尋で之を併せて外務省を置く(東京市役所『東京案内』1907年)」ということで当初民部省用地となったようだが、民部省は短期間のうちに大蔵省に合併されて消滅するので、後に外務省の用地となったようである。1881(明治14)年にはフランス人ボアンヴィルの手になる洋風庁舎が完成し、やがてその正面には、不平等条約を初めて改正した陸奥宗光外務大臣の銅像が建てられた(いま外務省北側に立っている銅像がそれであろう。余談だが、大正元年の『東京市及接続郡部地籍地図』を見ると、霞ヶ関周辺には「仁礼子像」「西郷像」「川村伯爵像」など、やたらに銅像が立っていたらしい。)。建物は新しくなったが、名高い黒田家の長屋造の海鼠壁は外務省の外囲として残っていたようである(麹町区役所『麹町区史』1935年)。今も外務省の周囲には低い石垣が積んであり、真偽のほどは定かではないが、それが黒田家の海鼠壁の土台の石垣であるとするホームページも見たことがある。

 ところで、戦前の外務省の敷地の南半分は外務大臣の官邸となっており、外務省の正門は、外務大臣官邸の入口でもあった。大隈重信が外務大臣を務めていた1889(明治22)年10月18日、その門前で大事件が発生する。その翌日、10月19日の『東京日日新聞(現在の毎日新聞)』より。「昨日は閣議ありき。大隈外務大臣も臨まれて、午後四時前、霞ヶ関の官邸へと帰られし。折しも午後四時五分過ぎ、大臣の馬車は砂煙を挙げて外務省の正門に入らんとせしに、堂と響きて一発の爆弾飛び来り、破裂せしかども、幸にして丸は馬車には中らざりしかば、御者は馬に鞭強く加えて難なく門内に走せ入りぬ。右は外務省の門前に彳み居たる一人の紳士体の者の所行にして其兇行者は(日比谷頭に向ふ)門の左側に待ち構居りしなり。爆裂弾は狙外れて右側の石柱に中りて、其細片馬車の窓より入りて大臣の右の足を傷けたりとも云ひ、又は左に当りて左足を傷けたりとも云へり。」。犯人は玄洋社という政治団体の来島恒喜という者で、大隈外相の進めていた不平等条約改正交渉に不満を持っての犯行だったと言われる。「当時(大隈)伯は馬車に在って右足を左足の上に挙げて曲げ居り、且つ爆裂の処、身体の位置より下に在りしを以て、爆裂弾の砕片は、伯の膝口と右足の脚目を痛く撃て(10月20日の記事)」結局、大隈は右足切断の重傷を負って外務大臣を辞任する。来島は犯行直後、懐中から短刀を取出し、頚動脈を切断して自殺する。大隈の右足はホルマリン漬けになって、大隈が創立した早稲田大学に保存されていたが、昨年(1999年)4月、佐賀市の菩提寺に寄贈された(『毎日新聞』1999年4月18日)。

 外務省庁舎は戦災で焼落ち、その後、外務省は日産館や大蔵省に間借りしていたという。現在の庁舎は1960(昭和35)年以降、次々に建増しされたものである。大隈重信襲撃事件のあった正門付近は、相変わらずものものしい警備に護られている。

(この項目は、2000年11月に書かれました。)

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