YAGOPIN雑録

この町を歩く

合同庁舎6号館赤レンガ棟

● 東京・町の歴史 溜池・1

人の手によって生まれ、そして消えた池

 特許庁前の交差点から外堀通りに沿って赤坂見附まで、かつて「溜池」と呼ばれる池があった。明治初期の史料によれば「長さ792間、幅広き所107間、狭き所25間」というから(『府志料』)、長さ1.4km、幅45m~190mといったところだろう。かなり細長い池だったことがわかる。ひょうたん池とも呼ばれていたという。

溜池交差点。奥に見える高層ビルの前に堰があった。
溜池交差点。奥に見える
高層ビルの前に堰があった。

 江戸時代以前にもこのあたりには涌き水のたまった池があったのだろうが、1606(慶長11)年に和歌山藩主浅野幸長の家臣矢島長雲が、現在の特許庁前交差点附近に堰を造って水をせき止めたのが本格的な溜池の始まりと言える。矢島長雲はこの功績を後世に伝えるため、池の堤に印の榎を植えたと『江戸名所図会』にあり、いまアメリカ大使館前から赤坂ツインタワーの方へ下る坂を榎坂というのはこれに由来するものであるそうだ。この溜池は江戸城の外堀の一部をなすものであるが、神田上水、玉川上水が整備される前には溜池の水が上水としても用いられていた。また、徳川秀忠の時代には、琵琶湖の鮒や京都の淀の鯉を放したり、蓮の花を植えたりして上野の不忍池に匹敵する江戸名所になり、徳川家光はこの池で泳いだとも伝えられる(『江戸名所図会』及び「溜池発祥の碑」より)。さらに溜池の南岸には、池の土手を補強する意図からか桐の木が多く植えられ、附近は「桐畑」と呼ばれていた。こうした風光明媚な場所であったことにより、安藤広重の『名所江戸百景』にも「赤坂桐畑」「赤坂桐畑雨中夕けい」の2枚に溜池が描かれ、江戸時代の溜池の雰囲気を今に伝えている。後者の「赤坂桐畑雨中夕けい」の方は『江戸名所百景』中、ただ一つ二代目広重の落款があるもので、師匠の「赤坂桐畑」が桐の木をアップにして、遠景に虎ノ門方面の溜池を描いたのに対し、弟子の二代目は、もっと遠くから桐畑と溜池を見て、その向こうに赤坂見附の坂道を描いている。そのほか「虎の門外あふひ坂」の絵には矢島長雲が築いた石造りの堰が描かれ、また、溜池は画面に入っていないものの「紀の国坂赤坂溜池遠景」という絵も『名所江戸百景』中にある。

 幕府普請奉行が編纂した地図集である『御府内往還其外沿革図書』を見ると、溜池は1707(宝永4)年と享保年間(1716~1736)の間にもその一部が埋立てられたようだが、より本格的に埋立てが始まるのは明治になってからである。明治8~9年頃から水を落として干潟とし、広野になったといい(『東京名所鑑』)、さらに1882(明治15)年に「今の特許庁付近に工部大学校を建設するため、ドンドンと呼ばれた落し口を広げると、急速に水が減少し(国際赤坂ビル横にある港区教育委員会の表示板より)」たとある。「ドンドンと呼ばれた落し口」とは矢島長雲の築いた堰のことにほかならない。地図を見ても1876(明治9)年の『明治東京全図(東京市史稿市街篇附図)』ではちゃんとした池であったものが、1885(明治18)年の『東京実測図(内務省地理局)』では湿地帯の中にほそぼそと水が流れているだけの様子に変わっている。続いて1888(明治21)年にはもとは池であった場所に溜池町が成立、翌1889(明治22)年になると池は一条の細流を残して埋め立てられ、その後の市区改正計画により現在の外堀通りが開設されて1909(明治42)年にはそこに市電が通った。地図を見ても1896(明治29)年には川のようになり(『東京市赤坂区全図(東京郵便電信局)』)、1921(大正10)年には水路のようになり(『東京市赤坂区図(東京逓信局)』)、1939(昭和7)年にはその水路さえもなくなった(『東京市赤坂区地籍図』)。付近は普通の市街地となり、「溜池発祥の碑」によれば「溜池角の小松ビルは元は演伎座と云う芝居館として人気を煽り東京オリンピック以後はビル街として発展し」たとある。こうして溜池は人の手により造られ、そしてやはり人の手により消えてしまった。「溜池町」の町名も1967(昭和42)年には赤坂2丁目に統合されてなくなってしまったため、今は溜池交差点や、地下鉄の溜池山王駅にその名を残すのみとなったが、しかし大雨のときには溜池交差点付近は浸水しやすい場所となっているのが、溜池の名残といえば名残になっているようだ。

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