YAGOPIN雑録

日々のできごと・思うこと

首里城正殿

● 2002年10月~12月


ロゴ入りのガラス越しに汐留を見る。
ロゴ入りのガラス越しに
汐留を見る。

 28日から29日にかけて、友達の運転で東京に帰ってきた。大阪に転勤になってからもなんだかんだで東京に帰っているが、これだけ東京でゆっくりできるのは久しぶり。ぶらっと汐留シオサイトを眺めに行ってきた。

 地下鉄とゆりかもめの駅ができたのが11月2日で、電通の本社が移転したのが12月1日だそうである。しかし地上部分は今もってほとんど工事現場で、地下鉄の駅につながる地下道と、ゆりかもめの駅につながる歩道橋部分しか歩けないような感じだった。本格的に町開きとなるのは、日本テレビなどが移転してくる来年春以降のことになりそうだ。もっとも将来的にも地上は車が通るところで歩道橋と地下を歩けば事足りるような町になるのかもしれないが。【2002.12.31】


 日曜日、悪寒がして関節が痛むので熱をはかってみたら38度あった。昨シーズンは一度も風邪を引かなかったので、ちょっと油断していたかもしれない。風邪引かない記録は1年10ヶ月でストップである。実家からもらった葛湯など飲んで、厚着して薬飲んでとにかく寝る。10時間寝て少し体調も回復したので今日は通常通り出勤した。現在、喉は痛いが、熱は35度まで下がっている。【2002.12.16】


 昨日は2月に結婚する友人が新居に引っ越すので、手伝いに行った。前の寮は都心にあって、かなり殺風景な六畳一間だったのだが、今度は近くに大阪港、遠くに淡路島が見える埋立地のニュータウンの12階、2DKである。

 友人が諸手続きをしにいっている間、留守番をしていたら、最新鋭のインバータエアコンやら乾燥機付洗濯機やら薄型液晶テレビやら次々に家電製品が届き、あっという間に所帯持ちの部屋になった。

 とりあえず幸せのおすそわけとして鍋をおごってもらった。【2002.12.15】


 先週末、従姉妹の結婚式で東京に帰ったばかりだというのに、この週末は、急な出張でまた東京である。別に東京に帰りたくないわけではないが、なんかこうばたばたとしていると新幹線の往復5時間が非常にもったいない気がしてくる。飛行機だとぱっと行ってひょいと乗っかるというわけにいかないし、リニアモーターカーでもさくっと造ってくれないかな、というような、今の状況ではいったいいつになるのか分からない発想が出てきてしまう。

 前に豊田に住んでいたときは、東京への往復の間に途中下車して温泉に行ったり観光したりいろいろ寄り道して、のんびり旅をできたのがとても懐かしい。なんとかもうちょっと暇ができないものかと思うこのごろである。【2002.12.8】


 毎日ばたばたしている。切羽詰って余裕がない。転勤してから3ヶ月ちょっと。このくらい経てば、ちょっとは仕事も楽になりそうなもんだが、状況は悪化するいっぽうのような気がする。なんかいい打開策はないもんか。

 で、どうもこのごろ疲れ気味なので、この土日は昼過ぎまで思う存分寝てしまった。寝るばかりで休みが終わってしまうのも寂しいので、午後からは京都に来てみたが、紅葉のシーズンだからか京都の町なかはえらい混みようである。これは市内から少し離れないといけないな、と思い、30分ほど電車に乗る。着いた先は岩清水八幡の近くにある八幡市駅である。

 岩清水八幡と言えば、中学の教科書に出てきた『徒然草』を思い出す。仁和寺にある法師が岩清水八幡に行こうとして、山のふもとにある神社にお参りして帰ってきてしまう。岩清水八幡は実は山の上にあるのであって「少しのことにも先達はあらまほしきことなり」という兼好法師の説教で終わる話である。今は駅前からケーブルカーが出ている。山の上に着くと、モミジが青くもなく赤過ぎもせずいい色に染まっていた。あいにくカメラを持ってくるのを忘れてしまったのが残念である。

 社殿は徳川家光の時代に建てられたもので国宝だそうである。これからは、もうちょっといいことがありますように、ということでおみくじを引いてみたが、やっぱり「凶」だった。改めて見ると「凶」という字は函構えの中にでっかく「×」が入っていて、なんというかそのまんまな字である。「凶」の横に「上昇運」とあるのがせめてもの慰みで、まあ、今が底なんだな、という解釈をしておく。

 京都はあんなに混んでいたのに、ここは七五三の家族が一組と犬の散歩をする人がいるくらいでとても静かである。参拝を終え、落ち葉の敷かれた誰もいない参道を下っていく。紅葉の間から見える川沿いの町が一歩下るたびに近づいてくる。下るのでなく登っていれば、だんだん俗界から離れるような心持ちがしたかもしれない。ケーブルで登ってしまったのはちょっと横着だったか。

 と、ほんの15分も歩くと山を降り切ってしまった。やれやれ。また明日からは仕事である。【2002.11.24】


 2泊3日で札幌まで行ってきた。初日は札幌、2日目は小樽を回り、最終日の今日は、室蘭の地球岬まで足を伸ばした。地球岬は、地球が丸く見えるからそう命名されたのかと思っていたが、ポロチケウェという「断崖絶壁」を意味するアイヌ語が語源なのだそうである。バスを降りて、坂を上って行くと、突如、あられが降り出し、5mmくらいの氷の粒が激しく降ってきた。小止みになったのを見計らって、展望台に立つと、視界の270度くらいは海が広がっており、海の向こうに遠く渡島半島も見えている。海の反対側からは室蘭の市街地と室蘭港を挟んだ対岸にそびえる山々が見える。

 室蘭からはバスに乗って、登別温泉へ。温泉に浸かってから地獄谷へ行く。早くも登別は紅葉の盛りを迎えていた。【2002.10.28】

クラーク博士像
札幌羊ヶ丘のクラーク博士像
SL
またSLに乗った。(小樽駅)
小樽運河
定番の小樽運河
地球岬灯台
地球岬灯台
ニッカウヰスキー工場
ニッカウヰスキー工場(余市町)
登別地獄谷
登別地獄谷

 昨日はふらっと日帰り旅に出てきた。最初の目的地は兵庫県赤穂市。言わずと知れた赤穂浪士の赤穂である。数年前に大河ドラマで赤穂浪士を取り上げたためか、それとも今年が1702(元禄15)年の赤穂浪士討入りから300年目にあたっているためか、駅も通りも城跡も、綺麗に整備され、あるいは整備されている途上である。そのせいか赤穂の町は今も浅野家5万石の城下町にふさわしい端正な町並みとなっているように見えた。本丸跡は公園となっているが、かつての広大な本丸御殿の見取り図がコンクリート敷きでそのまま実物大に再現されている。大石神社となった大石内蔵助の屋敷跡には当時の長屋門が火災を免れて残っている。赤穂といえば塩の産地として名高い。元禄のころには藩の財政もまあまあ豊かだったのではあるまいか。それが1701(元禄14)年3月14日、松の廊下の刃傷事件で藩主浅野内匠頭は切腹、藩はお取りつぶし。国家老だった大石内蔵助も一転、浪人の身分に転落である。なんもかんも失っていっちょ討入りでもしてやるか、という気分になっちゃったのかもな、などと考えながら町を一回りする。

御殿の間取りが再現された赤穂城本丸
御殿の間取りが再現された赤穂城本丸
大石内蔵助邸長屋門
大石内蔵助邸長屋門

 いっぽう、吉良上野介から見て赤穂藩は、そして浅野内匠頭はどんな存在だったか。忠臣蔵のイメージと違い、吉良上野介は領地では名君の誉れ高く、いっぽう浅野内匠頭はいろいろ乱行の目立つ殿様であったようだ。前に吉良上野介の領地・愛知県吉良町へも行ったことがあるが、上野介が赤馬に乗って視察したという吉良の里はのどかな田園風景が広がるばかり、この赤穂に比べれば何もないところという印象だった。「自分はたかだか4300石の領地のために堤を造ったり塩田開発してみたりいろいろやっとんのにこいつは遊びほうけてなんじゃまったく! 上杉家を継いだわしの息子も30万石から15万石に減封されて、雪深い米沢で苦労しとるんじゃ!」…とかそんな思いで内匠頭に対して何か言ったかやったかしたのかもしれない。

 赤穂から岡山へ出、宇野線に乗り換えて宇野(玉野市)に着く。瀬戸大橋がかかるまで、四国へ行くには宇野から高松へ渡る宇高連絡船を使うのが一般的だった。今もフェリーはたくさん出ていて、3つの会社がそれぞれ1時間に1~2本ずつ運航している。切符売り場に行くとなんと宇野~高松間の運賃はわずか300円である。本州四国間は20km以上あるので下手をすると電車より安い。しかも乗っているのは僕のほかにカップル2組、おっさん1人、トラック運転手1人の計7人と乗用車1台トラック1台だけだった。

 瀬戸内海は島も多いが、行き交う船もたくさんある。島々と船々の間を縫うように進んで1時間ほどで高松に着いた。さぬきうどんだけ食べたら駅に向かい、帰りは瀬戸大橋線に乗る。瀬戸大橋は上段が高速道路、下段が線路の2階建て。実は下段には新幹線用のスペースも用意されている。上段から見たほうが広々として景色はよく見えるが、下段からは下をのぞくことができ、まさしく海を渡っているという実感があってこちらもなかなかいい。この橋ができてずいぶん気楽に四国へ行けるようになったという気がする。また岡山に戻り、鈍行で神戸へ出て、友人とちょっと飲んで帰った。【2002.10.14】

貨物船と接近
貨物船と接近
瀬戸大橋より瀬戸大橋より
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