YAGOPIN雑録 日々のできごと・思うこと 首里城正殿
 
 ● 2002年1月〜3月
 
 

 そういえばこないだ実家の収納スペースを増やすためにマンガを30冊くらい古本屋に持っていった。1000円くらいがいいところかと思ったが、予想に反して2800円にもなった。続き物だと値もいいらしい。もともと古本屋で買ったものなのに。

 ちなみにその2800円は、ちょうど2800円の本を買ってすぐになくなってしまった。【2002.3.30】


 花見日和だねえ。窓の外には桜の木が2本あって風に花びらが散っている。

 しかし花見日和ではあるが洗濯日和でもあるため、洗濯物ごしに花が見えている。したがっていまひとつ美しくない。やはり外に出ないとだめか。【2002.3.30】

2002年の桜

  右)都立桜ヶ丘公園
  左下)多摩川付近
  右下)武道館周辺


 リスに似ていると言われたことがあるほどナッツ類が好きで、こないだなどはスーパーで思わずからつき落花生を一袋買ってきてしまい、小腹がすくとばりばり食べていたりする。しかし昨日初めて知ったのだが、ナッツ類には花粉症の原因物質であるヒスタミンが含まれているそうなのだ。そのほかにも花粉症の人が食べないほうがいい食品として、お菓子類、食品添加物を含む食品など。夜が遅くなるので、とりあえずお菓子でもたせて、家に帰ってコンビニ弁当を食ったり、落花生をかじったりしている私はいったいどうすればいいのだろう。。。【2002.3.21】


 先週は、いちばん早く帰った日が終電。課全員午前4時まで会社にいるという日もあった。そのくせ昨日は1時過ぎまで飲んで、しかもそのあと寮で飲んだりして、今日は起きたらなんと午後4時だった。。。【2002.3.3】


 寮長就任以来およそ2年。ほとんどたいした仕事はしてこなかったのだが、今回、意を決して廊下に山積みとなっていた粗大ゴミの片づけを呼びかけてみた。とりあえずゴミを外に出し、粗大ゴミシールも買ってきて、あとは持っていってもらうだけになったのだが、冷蔵庫とかテレビとかエアコンとか家電リサイクル法に引っかかる物品がずいぶんあって困っている。ふつうのゴミとしては捨てられないので、けっこう金かかるらしいんだな、これが。【2002.2.16】


 今年になって昨日までの11日間のうち、飲んだ日が8日で、飲まなかった日が3日。この三連休は肝臓にとっても三連休にしたいものだ。【2002.1.12】


 正月三が日は家族で沖縄に渡っていた。

 海はびゅうびゅう風が吹き荒れ、外に出るときはセーターとコートが必須、という具合で南国気分はあまり味わえなかったが、前回沖縄に行ったとき以来、興味をもっていた琉球王朝時代の遺跡をいろいろと見られたのがよかったと思う。

 沖縄は言語的には日本語の系統に属するが、前近代には琉球王国という独立の王国だった。琉球王国がいつから存在したのかはよく分からないが、14世紀の終わりごろの沖縄には、浦添グスクを拠点として沖縄本島中部を支配する中山王・察度(さっと)をはじめ、北部を支配する北山王と南部を支配する南山王の3人の王がおり、それぞれ中国の明王朝に使いを出して明の皇帝から王としての承認を得たと中国の歴史書『明実録』に書かれている。

 察度の後には武寧が中山王となったが、この王は酒色におぼれ、尚巴志(しょう・はっし)によって滅ぼされる。琉球は「間切」という行政単位に区分されており(その多くは現在の市町村に引き継がれている。)、各間切には「按司(あじ)」と呼ばれる領主がいた。尚巴志もそうした按司のひとりであり、身長が5尺(150cm)に満たなかったことから「小按司」などと呼ばれていたという。この「小按司」は、武寧を滅ぼした後に居城を那覇市内にある首里城に移し、やがて北山王・南山王も滅ぼして、統一琉球の国王となるのである。

 尚巴志に滅ぼされた北山王の拠点だった今帰仁(なきじん)グスクに行ってみた。グスクとは城砦のことで、沖縄には「豊見城(とみぐすく)」など、「城」と書いて「ぐすく」と読ませる地名もある。かなり崩れてはいるものの立派な石垣がある。沖縄のグスクがいつごろから石積みになったのかは分からないが、もし尚巴志の時代から石垣が積まれていたのであれば、日本の同時代の城に比べるとずいぶん進んだ技術を持っていたのではないかとも思わせる。今帰仁グスクの両側は断崖になっていて、そう簡単には攻め落とせない要害の地にある。尚巴志も城攻めは避け、北山王の部下と内応して王をグスクの外へ誘い出すという謀略によって勝利している。

今帰仁グスク勝連グスク

 尚巴志に続く第一尚氏王朝の時代には、まだ按司層の力が強く、勝連グスクの城主・阿摩和利(あまわり)のように国王を倒そうとする者もいた。そして、第7代尚徳王の死後、クーデターによって第一尚氏王朝は倒され、重臣のひとり金丸が新しい国王に推挙される(1470年)。金丸は王になることをかたくなに拒んだというが、結局、尚円と名を改めて王位に就き、第二尚氏王朝の祖となった。尚円の子・尚真は、国王のいる首里城の近辺に按司を集住させて反乱を防ぎ、第二尚氏王朝はこの後、明治時代まで続くことになるのである。正殿前に整列した按司に酒が注がれている。

 首里城は第二次大戦で破壊されたが、1992(平成4)年に復元された。もとはグスクであったことから、やはり石垣に囲まれた城砦の様子を呈しているが、王宮でもあることから、正殿は朱に塗られたあでやかな建物である。正月ということで王朝時代の正月の儀式が再現され、国王から振舞われた酒が正殿前の御庭(うなー)に並ぶ家臣たちに注がれている。家臣は冠の色によって位が区別され、王子や按司はカラフルな浮織冠、以下、紫、黄色、赤、青の冠となる。聖徳太子の「冠位十二階」に似たこの制度を始めたのも尚真であり、この王の時代が琉球王朝の最盛期とされている。このころ中国の明王朝は、公式のルートである「進貢」によってのみ交易を認めるという海禁政策をとっており、しかもこの「進貢」は日本の足利幕府は10年に一度、安南(ヴェトナム)は3年に一度、など回数が非常に限られていた。ところがこの時代の琉球は毎年進貢船を派遣することを特別に認められており、圧倒的に有利な立場で明との貿易を行うことができたのである。そのため、明からの物資は琉球を経由して日本や朝鮮や東南アジアへと広まり、またそれらの国々からの物資も琉球を経由して明へと送られていた。

首里城正殿玉陵

 尚真王は首里城の近くに王の墓である玉陵(たまうどぅん)を造営し、死後、そこに葬られた。玉陵には第二尚氏王朝歴代の王が葬られているが、ただひとりここに葬られていない王がいる。第二尚氏第7代の尚寧王である。海外貿易で発展した琉球王朝も、ポルトガルが貿易に参入するようになってからはその存在感を減じ、さらに尚寧王の時代には琉球王朝に外からの脅威がやってくることとなった。日本を統一した豊臣秀吉・徳川家康、そしてその代弁者となった薩摩の島津氏である。1609年、島津氏の軍勢に破れた尚寧王の琉球王国は、以後、島津氏に対する貢納を強いられ、将軍の代替わりごとに慶賀使、国王の代替わりごとに謝恩使を江戸に派遣することになった。尚寧が玉陵に入らなかったのは、こうした事態に陥ったことに責任を感じたためであった。

 その後も、琉球は王国としての独立はかろうじて維持し、明に代わった清との関係もそのまま続いた。そうした「日清両属」下での独立は、明治維新の後、1879(明治12)年の琉球処分によって沖縄県が置かれるまで続くのである。

 以上、琉球王国の歴史でした。【2001.1.6】


 あけおめ、ことよろ。

 ・・・という挨拶(?)を初めて聞いたのは確か3年くらい前のことだったと思うのだが、このごろこの言い方がずいぶん広まってきたのだろう、「日本語をこんなに略してしまってもよいものか!」という反発も聞かれるようになってきた。しかしまあ「棚ぼた」とか「泥縄」のようにいろいろ略語が作れるのも日本語の長所のようにも思えるし、挨拶を略すのはいかがかというのであれば、そもそも「こんにちは」や「さようなら」だって略語のようなものではないか、などと思うのだけど、どうだろう。【2001.1.5】


 

 あけましておめでとうございます。今年の年賀状は、少し渋めに、パソコンで浮世絵を描いてみました。【2002.1.1】

 
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