YAGOPIN雑録

日々のできごと・思うこと

稲村ヶ崎から富士・江ノ島を望む。

● 2000年10月~12月


 昨日は、飲んでるとき、隣の課の先輩に、「なーんだ、YAGOPINちゃん、実はけっこうおっさんじゃん。23~4かと思ってた。」と言われた。うーん。もうおっさん呼ばわりされてしまう歳なのか。。。いかんなあ。誕生日がぜんぜんHAPPYじゃないぞ。【2000.xx.xx】


 昨日は仕事納めでみんな早々に帰宅した。これだけ早く帰れるのは珍しいのだが、結局、なにをするということもなく、普通に夕飯を食ってさっさと寮に帰ってしまった。なんか20世紀最後の仕事納めというのにあまりにあっさり終わってしまい、なんだか拍子抜けである。

 と、これで終われば良かったのかもしれないが、どうもあまりに拍子抜けだったので、寮に帰ってから同じ寮の同期と駅前の焼き鳥屋に飲みにいってしまった。夕飯は食べているからほとんど飲むだけである。私はビール1杯と、冷酒を3本飲んだと記憶している。3時間ほど飲んで寮に帰ったが、どうもなんか調子が出てきてしまった。そういえば同じ寮の別の同期が年末年始にアメリカに行くといっていたことを思いだし、壮行会だ、などとわけのわからんことを言って、食堂に同じ寮の同期全員(私を含めて4名)を集めてしまう。さらに2時間ほど飲んで、ビール1缶と焼酎を何杯か飲んだと思う。

 で。その結果がこの2日酔いである。掃除をして洗濯をして、実家に帰ろうと思った計画もパーである。午後5時現在、ようやく起き上がったが、いまだに頭痛がして何にも手をつけていない。とりあえずパソコンを立ち上げてメールを打ち始めたりしている。【2000.12.29】


 年賀状を20日までに出せば2001年の消印を押してくれるということで、とりあえず毎年来るとこはなんとかそれに間に合わせようと20日に出した。さて、と残りに手をつけようとしたが、20日を過ぎてしまうと何のインセンティブも働かず、結局、それ以降、1枚も書いていない。印刷だけして宛名のない年賀状が20枚以上、私の手元にある。いつものように、残りは来たら出す、という方式になるのであろう。【2000.12.27】


 この1週間というもの、ほとんど飲んだくれの毎日でした。やはり年末年始はきついなあ、、、といいながら、実際にはうちの課は1年通して恒常的に飲んでいるので、普段とそんなに変わりはないんですが、課以外の忘年会なども加わったりすると、同じ酒でも、いつもとペースが違うので、やはりちょっと違います。

 私はどっちかというと日本酒党なのですが、うちの課は幹部2人が九州人のため、必ずビール1杯&焼酎お湯割り(芋限定)、という決まりになっています。課以外で珍しく日本酒とか飲んで、ついつい久しぶりなもんだからがばがば飲んでいるとへろへろになりますね(当たり前だ。。。)。予算の打合せのために各支社が次々に来る時期など、連続して飲まなければならないうちの課が焼酎しか飲まないのには、体への負担を少なくする、という理由があるのかもなあ、などと妙に感心したりもします。そういえば今週は、なんか足の裏の、肝臓の反射区のあたりが痛いような気も。。。【2000.12.23】


 大江戸線には新宿に新宿駅と新宿西口駅の2つの駅があるので、案内表示も矢印があっちこっちを向いていてなんだかわかりにくそうです。しかも2駅とも他線の新宿駅からは遠いし、新宿から大江戸線を初めて使おうという人はかなり困るのでは。多摩モノレールの立川北駅と立川南駅のように、大江戸線新宿駅と京王新線(都営新宿線)新宿駅を「新宿南」駅、大江戸線新宿西口駅と丸ノ内線新宿駅を「新宿北」駅というふうにしたほうがいいのじゃないかとも思ったりします。(小田急の南新宿駅は「西代々木」などとして。)【2000.12.18】


 そういえばいいかげん「YAGOPIN」はやめたくもあるのだが(もう10年くらい経つ呼称だ。。。)、メールアドレスなどに名字を使うのは僭越のような気がするし、名字に名前のイニシャルをつけても弟とダブる。名前に名字のイニシャルをつけるのもどうもいまいちなので、なんだかんだいってyagopin以上のものはないんだよなあ。メールアドレスを教えるときに何これ?って笑われることもあるけど。。。【2000.12.3】


 そういえばしばらくメール来ていないなあと思うとたいてい私が忘れているわけね。1ヶ月に1回くらいメールを整理するからそのとき気づく。【2000.11.27】


 先週の日曜日、近くのパスタ屋でブランチをとっていたら、隣の席に座っていたおばさんたちが鎌倉の話をしていて、無性に鎌倉に行きたくなった。それが、今朝、起きてみるととても天気が良かったのでさっそく鎌倉行きを決めてしまった。

 鎌倉はむろん初めてではなく何度も来たことがあるのだが、鶴岡八幡宮と大仏にはいつも行っているのに、それ以外の場所に行った記憶がとんとない。これだけ歴史が好きなのに、鎌倉時代とか太平記の時代なんかにあまり興味がもてないのは鎌倉を知らないせいかもしれないとも思う。そこで今回はいつもと違うコースにするため、JRを北鎌倉駅で降りて、切通しを抜けて鎌倉に入ることにする。

鶴岡八幡宮の大銀杏
鶴岡八幡宮の大銀杏

 駅を降りてまず円覚寺に向かう。「唐様」の代表として教科書に必ず載っている円覚寺舎利殿を見るためだったが、舎利殿の入口の門のところからは入れなくなっており、遠くに見える屋根を拝むだけだった。がっかりしてそのまま五山第一位の建長寺もパスしてしまう。この先、鎌倉七口のひとつである巨福呂坂の切通しを見て鎌倉入りするはずだったが、地図にある道はふさがっており、結局まあたらしいトンネルを通って鶴岡八幡の横へ出た。

 そろそろ木の葉も色づき始める季節で今日の鎌倉は人出が多い。参拝も早々に石段を降りる。材木座海岸まで一直線に若宮大路が通じているのがよく見える。右側、源実朝を暗殺する直前に公暁が隠れていたという銀杏の樹。ただ実際には、当時はこの樹は幼木で隠れられるほどの大きさではなかったというのが本当のところらしい。左手に折れると最初に幕府が置かれた大蔵幕府跡。特に建物などが残っているわけではないが、裏手の山には源頼朝の墓がある。鳥居の奥に小さな石塔があるだけの質素なもので、青山墓地あたりの明治の元勲の墓などに比べるとほんの何分の一かという感じである。

 さらに歩を進めて鎌倉宮へ。大塔宮護良親王が幽閉され殺害された土牢のあったところに、明治時代あらたに神社を造営したものである。神社の真裏にある土牢は意外に深い。ただの横穴かと思ったが、縦にも深くなっていて、こんなところにどうやって閉じ込められていたものかと思う。当時はもっとちゃんとしていたものが、崩れていってこんな穴になってしまったものだと思いたい。護良親王のものだというぼろぼろの直垂が展示してあったりするのも興味深い。

護良親王が幽閉されていた土牢
護良親王が幽閉されていた土牢
「東勝寺跡」の石碑。左奥に洞窟
「東勝寺跡」の石碑。左奥に洞窟

 バスに乗ったが道路は混雑していてぜんぜん動かない。やっとのことでバス停に着いたので降りようとしたら、バスの中も込み合っていて出口に着く前にバスが発車してしまう。もうちょっと車を減らしてバスを増やせないものか。坂道を登り、鎌倉幕府最期の地となる東勝寺跡。北条一族が自害して火をかけた寺は、今はただの草原となっている。「北条高時腹切やぐら」という表示もあるが、やぐらはどこにも見当たらない。ただ木の葉ですべる細道を寺域の奥へと進むと洞窟の中に小さな石塔があり、どうもこのあたりが高時自害の地であるらしい。「浄域につき参拝者以外立入禁止」という手書きの看板がなんとなくおどろおどろしい。少し高台になっているので、はるかに鎌倉が望める場所である。

大仏様
大仏様
大仏様の内側。へこんでいるところが頭
大仏様の内側。へこんでいるところが頭
稲村ヶ崎から富士・江ノ島を望む。
稲村ヶ崎から富士・江ノ島を望む。

 大仏を拝んでから、その幕府を滅ぼした新田義貞が通った稲村ヶ崎に向かう。例の、剣を海に投げ込んで祈ったら、潮が引いて歩いて海を渡ることができた、という伝説の地である。なるほどずっと砂浜続きの海なのに、ここだけは断崖となっていて通ることができない。この海を歩いて渡ることができたとは信じられないような場所だ。150年の間、鎌倉を守りつづけていた海がその日、新田義貞に道を開いた。実際その地に来てみると、ちょっと話がうますぎるほど劇的で象徴的な場面と思う。日は暮れ始め、遠くに鎌倉の灯が見える。反対側を見ると夕焼けの中に富士と江ノ島が浮かんでいる。一番星が輝き出したのを見て帰路についた。【2000.11.18】


 こちらは、東京暮らしも2年目になって、そろそろ豊田在住の1年10ヶ月に追いつきそうになってきました。ここしばらく東海地方に出向くことがなかったんだけど、例の大水害の日、四国への一人旅から帰ろうとしたら、交通機関がことごとく麻痺していて、久々に東海地方に長く滞在してしまいました(尾張一宮から名駅まで2時間かかったし)。

 それでも岐阜くらいまでやってきたら、あとは豊田時代の知りあいにも頼れるし、地理勘も少しはあるし、どうとでもなるな、と思ってなんかほっとしたりもした。豊田に住んでいたことというのは今から思うとなんだかウソのようだけど、それでもそんなときにはやっぱり元・愛知県民だなあ、という気にさせられるね。【2000.11.14】


 いつも使う私鉄でもパスネットが導入されたので、どこかへ出かけるときに切符を買うという手間がなくなり、行き先も経路もよく考えずに気楽に電車で出かけているような気がします。

 その結果、カードの裏側にはいろんな駅名が並んでますが、降車駅の表示は全角2文字の中に(乗換駅の場合)社名と駅名が無理やりに入っているのでちょっと面白い。まあ、「KO渋」が京王電鉄渋谷駅、「EI霞」が営団地下鉄霞ヶ関駅のことというのはわかるし、「TK五」が東急五反田駅というのもまだ許せるとして、「TO橋」というのはいったいどこのことでしょう。・・・答えは都営地下鉄浅草橋駅です。

 それで、浅草橋で降りて、両国橋を渡り、久々に江戸東京博物館に行ってきました。7年ほど前、開館したてのころに行ったときは、なんか広すぎて疲れたという印象が強くて、それ以来ずっと敬遠していたのですが、改めて行ってみるとけっこう新鮮な驚きがあります。寛永期の江戸図屏風にのっているかなりデフォルメされた大名屋敷の絵を模型に起こしていたり、江戸詰め藩士の1ヶ月の行動がカレンダーになっていたり(どうもかなり暇だったらしい。)、鹿鳴館や凌雲閣(浅草十二階)の模型があったりでいろいろ楽しめました。銀座の煉瓦街に1間(1.8m)のアーケードがついていたと本で読んで、その程度の幅で用をなしたのかと今まで疑問に思っていましたが、銀座四丁目にあった朝野新聞社の建物がそのまま復元されていて、なるほどこういうものかと妙に感心したりもしました。(歩けないことはない。雨宿りをするにはちょうどよいかも、というくらい。)

 しかしやっぱり広い。ぶっとばして見て2時間といったところです。江戸博物館と東京博物館でわけてくれればゆっくり見られるのに。それとあの建物はやっぱり変です。入口(6階)までエスカレーターであがった挙句6階と5階だけ見てまた降りてくるのは無駄と思います。別に外が見えるわけでもなし。誰が言ったか東京三大バカ建築に数えられるだけのことはあります。(あとふたつは浅草と不忍池にあります。)【2000.11.12】


 ふと気づいたのだが、ペンだこがなくなったのはいつごろからなのだろう。学生時代は、鉛筆が当たる右手の中指の側面と親指・人差し指の表面、紙とこすれ合う小指の第二関節付近がでっぱってつるつるになっていたのだが、今は右手と左手を比べてもあまりたいした違いがない。このごろは下手をするとちょっとしたメモでもパソコンの付箋紙ソフトにメモったりしているし(紙のメモだといつのまにかまぎれて忘れるので。)、FAXの送信用紙くらいしか字を書いていないのだ。鉛筆を使っていたころと比べて右手の稼働時間が減った分、左手の稼動時間は相当増えているはず。そのうち右利きだったことも忘れてしまったりするのだろうか。。。【2000.11.10】


 昼間っからぼけっとテレビを見ていたら、JT(日本たばこ産業)のCMをやっていた。「あ、ディライト」というやつ。

 あれっ? タバコのCMって夜11時以降でなければやってはいけなかったんじゃなかったっけ?と思い、調べてみると、たばこ事業法に「製造たばこに係る広告を行う者は、未成年の喫煙防止及び製造たばこの消費と健康との関係に配慮するとともに、その広告が過度にわたることがないように努めなければならない。(第40条第1項)」「大蔵大臣は、(中略)製造たばこに係る広告を行う者に対し、当該広告を行う際の指針を示すことができる。(第40条第2項)」という規定があり、「製造たばこに係る広告を行う際の指針(平成元年大蔵省告示第176号)」で「テレビにおけるたばこ広告は、夜間において、テレビを視聴する未成年者が相当程度少なくなる時間帯に行うこと。」と定められているのである。

 そこで、CMを改めてよく見てみると、、、あ、タバコのCMと見せて実はタバコが登場しない! 列車の中で、紳士がライターを取り出しタバコを探すそぶりを見せるのだが、向かい側の席の老婦人が持つ花束が気になり、ライターのふたを閉めてタバコを吸うのをやめてしまうのである。ずるいなあ、と思う前に、うまいなあ、と感心してしまったが、じゃあ、こんな巧妙な手を使ってまでこのCMが主張したいのは何かと言えば、「タバコは節度をわきまえて吸いましょう。」という程度の内容。タバコを吸うなとは言えないし、タバコを吸えともいいにくい。なんとも中途半端なCMにタバコ会社の苦悩が表れているようでもある。【2000.11.3】


 (友人と会津に行き、SLに乗ったり喜多方でラーメンを食べたりした。その後、上越新幹線で帰るはずだったのが、新潟で寿司を食べて一杯やったら、僕は帰るのがめんどくさくなってしまい、仕事があるという友人を見送って結局、もう1泊してしまった。その友人宛のメールより。)

 あのあとは結局、新潟厚生年金会館に1泊して、翌朝、万代橋を渡って市内をあちこち歩いた後、再び長岡へ。甘えび丼など食べてから、飯山線に乗換え。座席が信濃川(千曲川)のほうに向いている列車で、新潟では雨が降っていたのが、長野に入ると薄日が差し始め、なかなかいい風景でした。途中、野沢温泉に入って、長野でソバ食って帰りました。長野のソバは、早く帰りたかったので駅前で済ませちゃったけど、いかにも手打ちらしいソバだったし、思いがけずグルメな旅行になってしまったような気がするなあ。【2000.10.9】

SL
C57型のSL。電車より揺れる。
喜多方ラーメン
喜多方ラーメン
小千谷駅前
小千谷駅前の地下道
小千谷市は養鯉が盛ん
万代橋
大正14年創架の万代橋
福岡の名島橋と姉妹橋らしい。
飯山線森宮野原駅
飯山線森宮野原駅にて
この沿線は豪雪地らしい。
野沢温泉
野沢温泉の共同湯
13ヶ所ある。混んでいた。

 どうもご無沙汰です。もう半年もナゴヤ(ヤにアクセント。)にいれば、だいぶナゴヤにも慣れたことと思います。アサヒドーカメラのCMや、コメダ珈琲店の看板になんの違和感も感じなくなればあなたも立派なナゴヤ人です。

 さて、お尋ねの件ですが、ナゴヤといっても私は2年間、豊田にいたので、店を教えてくれといわれても、味噌煮込みなら山本屋とか、味噌カツなら矢場とんとか、ひつまぶしなら蓬莱軒とか、そういう誰でも知ってるような店しか知らないのだ。

 それでまあ、私の偏見によるナゴヤの印象をいくつか書くということで勘弁してください。

1.ナゴヤの人は全国ブランドよりナゴヤブランドを尊重する。

 どうもナゴヤの人は三越より松坂屋、東大より名大の方が上だと思っているようである。これは郷土愛が強いというような一般的な話で片付けられないような気がする。

2.三河と尾張は違う。

 尾張の人は三河は尾張の属国だと思っているが、歴史的には三河と尾張は別である。むしろ尾張藩のつながりからいえば尾張は美濃とつながりが強いはずなのだ。三河弁も尾張弁と比べると静岡のことばに近いような気がする。経済界を見ても名古屋の御三家(東海銀行、名鉄グループ、松坂屋)ないし御五家(御三家+中日新聞、中部電力)に対して三河はトヨタグループ(トヨタ自動車、豊田自動織機、デンソー、アイシン精機、豊田通商、トヨタ車体など)の牙城だったりする。

3.とにかくなんでも「名(メイ)」をつければナゴヤになる。

 名城、名駅、名鉄、名港、名空港、名高速。乳製品のメーカー「めいらく」もナゴヤの企業である。

4.道路は車のためにある。

 100m道路が2本、50m道路が9本あり、しかもほとんどの道路が傷みにくいコンクリート舗装である。しかし街路樹などは貧弱で、歩道が広いわけでもない。要するに人間は地下街を歩けということなのだろう。

5.よく言われる「大いなる田舎」という表現はある意味あてはまる。

 駅前(名駅)と旧来の中心地(栄)にしかめぼしい繁華街がない。この構造は普通の地方都市とあまり変わりがないような気がする。大須が東京で言えば浅草と上野と秋葉原を足して3で割ったような町になっていたり、三の丸あたりが官庁街になっていたりというのはあるが、結局、広い意味で栄の一部、という感じがする。名駅も繁華街というものの駅前だけが華やかでいまひとつ物足りない。将来的には金山あたりが副都心になるかもしれないし、大曽根とか今池とか星が丘とか八事とか、潜在的な力はあるかもしれないが。。。【2000.10.6。ナゴヤの人、怒らないでね。】

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