YAGOPIN雑録

日々のできごと・思うこと

稲村ヶ崎から富士・江ノ島を望む。

● 2000年4月~6月


 忙しいと忙しいのを言い訳にして、暇だとすべてにやる気がないとか言って結局、筆不精になるあたりが怠け者である。

 ところで、以前の職場の有志でタイに行くことになりそうだ。しかも実質2日間で。金曜日半休とって、月曜の朝帰ってくるというおそろしい行程である。はてさてどうなることやら。【2000.6.7】


 先日、所用で青森に行ったついで北海道まで足を延ばしてきた。

 青函トンネルを抜けて2つ目の木古内駅からバスに乗換え、福島町にある青函トンネル記念館と横綱千代の山、千代の富士記念館を見、北海道最南端の白神岬を回って、松前町に至る。松前は江戸時代、日本最北の城下町としてアイヌ人との交易や北前船の寄港地として栄えたところで、近江商人や北陸などから移住した人々によって、「内地」同様の暮らしぶりがなされていた。 1788(天明8)年に幕府巡検使の一員として松前にやってきた地理学者・古川古松軒は以下のように書き記している。「松前にあがりしに、案外なることにて、其家宅の綺麗なる事、都めしき所にて、左右の町家表をひらき、床に花を生け、金銀の屏風を立、毛氈を布(しき)ならべ、御巡検使御馳走のていと見え、貴賎の男女千体仏のごとく拝見に出し風俗・容体・衣服に至るまでも上方勤めの人物に少しも劣らず、、、」そして、海の向こうにこんな上方のようなところがあるとは噂にも聞いておらず、一同たいへんに驚いたというのである。

 5月も半ばだが、松前ではまだ桜が満開で、再建された天守閣が花に囲まれている様子は、とても北海道の風景とは思えない。城下町の街並が「松前藩屋敷」というテーマパークに再現されているが、奉行所、旅篭、棟割長屋など、これも普通の城下町そのまんまである。

 松前からは、再びバスに乗り江差町へ向かうが、しばらくするとバスの乗客は僕1人になってしまい、江差出身というバスの運転手さんと雑談しながら(缶コーヒーおごってもらった。)、海と原野しか見えない広々とした風景の中を約2時間。江差は寂しげな町だったが、江差で沈んだ幕府の軍艦・開陽丸を復元したものだけ見て列車で青森に戻った。【2000.5.31】

横綱千代の山、千代の富士記念館
横綱千代の山、千代の富士記念館
松前城
松前城

 明後日っていうか明日、T.K.氏の結婚式なのだが、どういう格好で行ったらいいのか、ということについて悩んでいる。ホテルとかでやる結婚式なら、まあブラックスーツで白いネクタイというコテコテの格好で行けば無難なんだろうが、(といってもブラックスーツも白いネクタイも持ってないけど。)レストランでやるということになっているので、あんまり大仰な格好で行っても浮いてしまいそうなのだ。

 実際、悩んでいたのは私だけではなかったようで、今日、突然、I.K.君から電話があって、同じ質問をされた。それで、まあ、結論としては普通の紺のスーツにシルバーっぽいネクタイをしていけば、どっちに転んでもそれほどおかしくはないだろうという、なんだか情けないほど中途半端な結論になったのだが、実のところどんなもんなんだろうか。いろいろ冠婚葬祭関係の本を立ち読みしたり、ホームページを探したりしても、タキシードとモーニングとディレクターズスーツの使い分けとか、欧米では、日本のようにブラックスーツで白いネクタイというような略礼装はしないので、黒い服の集団が歩いているとマフィアかなんかかと奇異に見られる、とかそれなりになるほどという情報は載っていたが、いわゆる今風の結婚式の場合はどうかということについては、あまり触れられていないものである。【2000.5.26】


 両親と長野県高遠町まで花見に行った。

 茅野と伊那を結ぶ杖突街道の途中にある高遠は、かつて内藤氏3万石の城下町だったところである。その高遠城の跡も、明治8年から1,500本の桜が植樹され、今は花見の名所としてにぎわっている。

 高遠の桜は「高遠小彼岸桜」という品種で、染井吉野よりも桜色が強いようである。城址公園のほかにもあちこちにこの桜が植えられ、満開の今日は、町の上に桜色の雲がたなびいているようにも見える。【2000.4.23】

高遠城
高遠城
遠くに帯状に桜色になっているところが城跡
遠くに帯状に桜色になっているところが城跡

 2ヶ月間、本社で研修ということで先週から新人が私の隣にも座っている。自分がその立場だったときには、何も仕事らしい仕事がなくてなんかつまらなかったものだが、実際、仕事を与える側に回ってみると2ヶ月間しかいない「お客さん」にやらせる仕事というのはなかなかない。しかし何もやらせないと私のやることをじっと見ていたりするので、とりあえずなんでもいいからやらせなくてはならないのである。【2000.4.16】


 先週末は、花見には絶好の日和だったが、昨日の雨でもう桜もほとんど散ってしまった。

 ところで、現在、日本で花見というと桜に決まっているのだが、物の本によれば、もともと桜は鑑賞用の花だったわけではなく、山野に自生していたり、農耕のためにその年の気候を推し量ったりするための木であったらしい。花を愛でるという文化が中国から伝わったときも、中国では梅が好まれていたことから当初は日本でも、庭に植えるなどして鑑賞するのは、もっぱら梅と決まっており、万葉集でも梅の歌は桜の歌の約3倍の数があるという。

その梅が桜にとって代わったのは9世紀、平安時代の初期のころ。それを象徴するできごとが、承和年間(834年~848年)に朝廷に植えられる「右近の橘、左近の梅」が「右近の橘、左近の桜」に代わったことである。

 むかし習った日本史を思い起こすと、平安時代の初期といえば、それまでの唐風の律令制、公地公民制が変容し始め、遣唐使が廃止されるなど、それまでの中国からの移入したものを、日本に合った形に変えていこうとする時代。文化的にも奈良時代の中国風の天平文化と、平安時代の国風文化の間にある時期といえるのではないだろうか。花見もそうした時代にあって中国風の梅から、日本風の桜へと変わってきたのかもしれない。

 もっとも一口に桜と言っても、今の日本人が桜といって思い起こす、染井吉野の木は江戸末期になって掛け合わせで作られた木であり、そのころの桜の木は、もっと素朴なものであったに違いない。豊臣秀吉が行った醍醐の花見も、枝垂桜を植えさせたものであるらしい。

 そんな桜の歴史にも目を向けつつ、いま一度、先週の満開の桜をどうぞ。【2000.4.16】

三浦半島の桜
三浦半島の桜
都内の桜
都内の桜

 異動から1週間。実働時間は減っているが、新しい課の勝手がわからないので、1週間がひどく長く感じた。【2000.4.10】


 一昨日は、夜帰ってきて、干してあった寝巻きのズボンを穿いたところ、中に蜂が入っていて、太ももの裏側を刺されてしまった。首や頭を刺されたり、大量に毒が入ったり、以前に蜂に刺された経験があったりするとアナフィラキシー・ショックという、アレルギーによるショック症状を起こす場合があり、ひどいときには死ぬこともあるという。

 私は、小学校5年生くらいのときに腕を蜂に刺されたことがあるので、ショック死する可能性がないわけではないのかもしれないと思ったが、アナフィラキシー・ショックは、多くは刺されて数十分以内に起こるらしいので、 1時間たって何にもないのを見届けたら寝てしまった。

 とりあえず今日現在、赤く腫れてはいるが、医者に行くほどでもなさそうなのでほおっておいている。【2000.4.1】


 なんとか仕事に一段落つけることができた。

 31日になっても新しい仕事が降ってきて、やむをえず、2、3のめんどくさい事柄を引継ぎに加えてしまったが、特に昨年のようなしんどい思いもしないで済んだので、ほっとした。

 …と思ってたら、うっかりパソコンのパスワードを引継ぎ忘れていたことを思い出した。

 パソコンのファイルの在りかとかちゃんと整理して残しておいたのに、肝心なところで画竜点睛を欠いてしまった感じである。【2000.4.1】

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