YAGOPIN雑録

日々のできごと・思うこと

復元された朱雀門

● 1999年1月~3月


 転勤が決まりました。4月1日付けで本社付ということになり春からは東京に戻ってくることになりました。最後に「付」がついているので想像がつくように実際には本社にはいないで1年ほど外部に研修に出ることになりました。【1999.3.20】


 三河地方には岡崎、刈谷、吉田(豊橋)、西尾、挙母(豊田)、田原の6つの主な城下町があるのですが、吉田と田原に行ったことがなかったのでちょいと行ってきました。豊橋はあまり城下町としてアピールしていないようで、城としての遺構がかなり残っているように見えるのにもかかわらず、城跡は運動公園のようになってしまっていてなんだかいまひとつです。さいきんでは豊橋のキャッチフレーズは「市電の走る町」らしく、豊橋郵便局のはんこにもちゃちな市電の絵が入っていました。広い大通りの真ん中の整備された軌道を市電が走っていく様子は東海地方のもうひとつの市電の走る町・岐阜とはちょっと対照的です。

 いっぽうの田原は渡辺崋山が家老を務めていたところで、崋山を観光資源にしようと城跡などもいろいろと整備されていました。田原城の門の前の市道からお城風の舗装になってるし、二の丸に造られた博物館も御殿風の建物で金かかってそうでした。しかし博物館の中身は完全に崋山一色で、郷土資料館的な展示はまったく無しだったのはちょっと期待はずれ。そのあとバスに1時間弱揺られて伊良湖まで足を延ばし、強烈に揺れる高速船で知多半島の河和まで渡りました。【1999.3.4】

田原城の門
田原城の門
渡辺崋山像
渡辺崋山像

近所の猫

 豊田に住んでいたころ、近所の飼い猫がよくうちの前を散歩していたので、おいでおいでをしてたら、そのうち呼んでもいないのに遊びに来るようになってしまった。豊田では日曜の朝とか夕方に窓の外で鳴き声がするとヤツが待っていたもので、引っ越した今でも猫の鳴き声がすると思わず窓を開けてしまうのがくせになっている。【写真は1999.2.28ごろ】


 三河線終電早すぎ。上前津22時20分発に乗らないと豊田市からタクシーになっちゃうもんなあ・・・【1999.2.17】


 きのう近所で強盗事件がありました。場所はJA(ようするに農協)の支店で、犯人は60歳前後の男性、66歳の客に取り押さえられ、そのショックで心臓発作を起こし病院に運ばれると言ういまひとつ緊張感のない事件でしたが、その緊張感のなさがいかにも我が町って感じです。でも新聞の社会面に小さく出たし、ニュースステーションでも取り上げられたということです。【1999.2.4】


 タッチメソッド(ブラインドタッチ)のやり方は簡単です。キーボードを見なければよいのです(笑)。

 ふざけるな、と言われそうですが、実際キーボードをできるだけ見ないで打っていれば、自然にキーボードを見ないで打てるようになります。じゃあ、キーボードを見ないで打つのにはどうすればよいかということなのですが、まずはどのキーをどの指で打つかを明確に決めておくことが必要になります。左右の人差し指をFとJに置いてみると(出っ張りがあるキー)中指はDとK、薬指はSとL、小指はAと;のキーにきます。そのキーから斜め左上にあるキーと、斜め右下にあるキーがその指の担当するキーです。つまり左の小指は QAZ、薬指はWSX、中指はEDCを担当することになります。RFVとUJMの間にあるキーも人差し指が担当するので左の人差し指はRFVTGB の6つのキー、右の人差し指はYHNUJM、以下、中指IK,、薬指OL.、小指P;・となります。

 そしておのおのの字を打つときにどの指をどう動かして打つかを覚えておかなくてはなりません。 Aだったら左小指そのまま、 Iは右中指を上へ動かし、Uは右人差し指を上へ、Eは左中指を上へ、Oは右薬指を上へ、となります。これを覚えるのは大変そうですが、できるだけ見ないで打っていれば自然と頭で考えなくても指が動くようになってきます。それに覚えると言っても XCVなど、あまり使わない字まで覚える必要はないのでとりあえず母音とよく使うKやS、N、Mといった子音の位置だけ覚えておくだけでもだいぶ違うはずです。

 よくワープロを使う人なら日常の仕事の中でタッチメソッドを覚えることができると思います。そしてタッチメソッドを覚えてしまえば日常の仕事にかかる時間がずっと短縮されるはずです。目は画面だけを見ていればよくなるし、頭を使うことも少なくなるので疲れもずいぶん軽減されると思います。さいしょの練習はちょっと億劫かもしれませんが、効果は絶大なので習得することをぜひお勧めします。特別に教材やソフトなど用意しなくとも机の上に指を置いて、どこにどのキーがあるか思い浮かべてみるだけでも案外に早くできるようになると思います。【1999.1.30】


 期せずして住むことになったこの町(愛知県豊田市)だが、それなりに長いこと住んでいると愛着も沸いてくるもので、町の成立ちその他についてもいろいろと調べたくなる。そしてその調べた結果を簡単にまとめると、この町は以下のような特徴を持った町ということになる。

トヨタ自動車の町である。

 豊田市に本社があるからトヨタ自動車ではなく、トヨタ自動車の本社があるから豊田市なのだ。もともとこの町は挙母(ころも)市という名前だったのだが、1959(昭和34)年に議会の議決を経て豊田市という名前になってしまった。一私企業の名前が都市の名前になってしまったというおそらく世界的にも稀有な例である。

豊田市役所に建つ中村寿一と
豊田喜一郎の銅像

 トヨタ自動車の前身は、今も豊田市の南隣の刈谷市に本社を置く豊田自動織機製作所であり、豊田自動織機が自動車産業へと進出したのは創業者・豊田佐吉の長男・豊田喜一郎の英断によるものであった。ときは昭和も13年(1938年)、養蚕業の盛んであった挙母町は世界大恐慌による製糸関連産業の不振の影響を大きく受けており、養蚕に代わる産業を、という当時の中村寿一町長の誘致活動と、大規模な自動車工場の用地を探していた豊田喜一郎の思惑が相俟って、挙母町の一角、論地ヶ原と呼ばれる荒地につくられたのが現在のトヨタ自動車本社工場である。今も豊田市役所の一角には中村町長と豊田喜一郎の銅像がふたり並んで立っている。

 以後、乗用車の生産が主流になった1959(昭和34)年には乗用車専門の元町工場が、1965(昭和40)年にはエンジン専門の上郷工場、カローラの生産が開始された1966(昭和41)年には小型車専門の高岡工場が、というように豊田市各地に工場がつくられていき、現在ではトヨタの国内12箇所の工場のうち7箇所が豊田市内に、3箇所が隣の西加茂郡三好町にあり、残り2箇所も同じ愛知県内にある。また関連企業のうち豊田自動織機をはじめアイシン精機、デンソーなどの主要部品メーカーは隣接する刈谷市に多く立地しており、国内で生産されるトヨタ車の大半が愛知県西三河地方のきわめて狭いエリアで生産されているということになる。

 そして当然ながら豊田市におけるトヨタ自動車の影響力は絶大である。労働人口の約半数が自動車関連産業で働き、市内の車の約85%がトヨタ車、トヨタの決算報告に豊田市長がコメントを出すということである。まさにトヨタなくして豊田は語れない。 

挙母藩2万石の城下町である。

 豊田市は、愛知県西加茂郡挙母町・高橋村・猿投町と碧海郡上郷町・高岡町・東加茂郡松平町が次々に合併してつくられた都市であるが、その中心となる挙母町はもと挙母藩の城下町だった。現在の豊田市の中心街も1604年に挙母藩の初代藩主となった三宅康貞のつくった城下町に由来している。竹生町・北町(現・喜多町)・本町(現・挙母町)・神明町・西町・東町・南町のいわゆる挙母七町(のちに中町(現・桜町)を加え挙母八町となる)がそれであり、陣屋は今の元城町にあった。

 1万石の大名だった三宅氏やその後に入封した本多氏は正式な城を造ることを許されず挙母には陣屋しか置いていなかった。城を造ることが幕府に許可されたのは本多氏の後に2万石の内藤政苗(まさみつ)が藩主となってからであり、許可を受けた政苗は1750年、本多氏の陣屋の跡地に本丸・二の丸と4つの郭からなる城、「桜城」を造ることを計画した。しかし挙母を流れる矢作川はほぼ毎年のように洪水を起こす荒れ川であり、特に桜城工事中の1763年、1765年、1767年と大水害が続けざまに起きた。そのため内藤家二代目藩主の学文(さとふみ)の代になって桜城の築城は放棄され、高台の童子山に新しい城を造り直すことになった。1780年に幕府の裁可が降り、新城「七州城」の建築が開始された。同時に水害の被害の大きかった本町・東町の一部と南町も高台に移されることになったため、挙母は元の城下町(下町・下挙母)と高台の城下町(上挙母)の2つの城下町を持つ町となった。その後に下町は豊田市の中心市街となり、上挙母は城下町の雰囲気を残す住宅地となって別々の発展を遂げたが、現在でも10月の挙母神社の大祭のときには下町の5町の山車と、上挙母の3台の山車が一同に会するのである。

 なお、幻の城となった「桜城」隅櫓の石垣はNTTの隣に今もぽつんと立っており、「七州城」本丸跡は現在、豊田市美術館になったが、その隅櫓は明治時代に取壊された後、1978(昭和53)年に再建されている。


「桜城」隅櫓の石垣

「七州城」再建隅櫓

愛知県第3の都市である。

 愛知県はかつての尾張国と三河国から成るが、その両国は境川という二級河川をはさんで今も微妙に異なる意識や文化を持ちつづけているようである。また三河国の中でも、豊川に沿う東三河地方はもと穂の国と呼ばれた地域であり、「御河(みかわ)」である矢作川に沿う西三河地方とはまた一線を画している。

 尾張全域は御三家のひとつである尾張藩の領地であり、その城下町である名古屋市は、尾張部の中心都市、愛知県最大の都市、というより東海地方を代表する二百万都市となった。対して三河部は吉田(豊橋)・岡崎・西尾・刈谷・挙母(豊田)といった譜代大名の城下町が分散しており、現在も豊橋市(人口35万人)、豊田市(34万)、岡崎市(32万)のほか人口10万人程度の都市が散在している。中でも愛知県第2の都市である豊橋市は、東三河地方の中心都市であるといえるが、西三河地方の中心は豊田市と岡崎市が張り合っている。歴史的には東海道の宿場町であり徳川家康の生地として一目おかれた岡崎のほうが、一介の小城下町に過ぎない豊田(挙母)より本来格上なのであるが、トヨタ自動車とともに急成長を遂げた豊田市が人口の面では岡崎を追い抜いて名古屋・豊橋に次ぐ愛知県第3の都市になった。1998(平成10)年には愛知県で初めての中核市指定も受けている。

 都市の急成長に合わせて交通の整備も進み、旧来の名鉄三河線に加え1976(昭和51)年に国鉄岡多線(現・愛知環状鉄道線)、1979(昭和54)年に名古屋と直結する名鉄豊田線が開通。駅前の整備も進んで1988(昭和63)年に豊田市駅西口に豊田そごうがオープン、東口には1995(平成7)年に再開発ビル「GAZA」、1998(平成10)年にコンサートホールや図書館の入った複合ビル「豊田参合館」が造られた。さらに現在、矢作川岸に巨大なサッカー場の建設が進められており、駅とサッカー場を結ぶ豊田大橋の建設と周辺の公園整備が行われている。しかし一方で各地の中規模都市に見られるように中心街の空洞化も進んでいるのは少しさびしいことである。

豊田そごう(現在の豊田松坂屋)
豊田そごう(現在の豊田松坂屋)
建設中の豊田大橋
建設中の豊田大橋

 ということでいろいろあるのだが、豊田市は工業都市であるだけでなく、市街地ではそれなりに商業集積があるし、町から少し離れれば田園風景が広がり矢作川・猿投山に代表される山河がそれに続いている。平均年齢34歳と全国的に見ても若い町であり、名古屋の中心へも1時間程度で行ける。トヨタの工場でも見に来ない限りわざわざ観光で来るところではないとだろうけど、まずまず住みやすい町であるとはいえるのではないかなと思ったりする。【1999.1ごろ】

(後註・「そごう」は2001(平成13)年に閉店し代わりに「松坂屋」が入った。そもそも西口にデパートを造ることになったとき、当初「松坂屋」を初めとする名古屋のデパートを誘致したが断られ、代わりに入ったのが「そごう」だったという経緯があるようだ。「GAZA」も経営破たんしたマイカルグループの「SATY」が核テナントになっていた。クルマの町である豊田市の駅前に大型店を出店しようなどという考えを持つ企業は経営的に少し甘いところがあるということなんだろうか。。。)


 新年あけましておめでとうございます。

 今年は家族そろって奈良で正月を過ごしました。別に親戚が奈良にいるとかそういうのではなく、単に我が家は一家で旅行好きなのです。

 ちなみに僕自身は奈良を観るのは3回目なので薬師寺とか大仏殿とかはもう遠慮して、ひとりで平城宮の跡を歩き回ってました。現在の奈良市の中心街や奈良公園のあるところは奈良時代の平城京でいうと東のはずれ、正方形の形をした平城京からちょっと出っ張った部分にあたるのですが、逆に平城京の中心である平城宮は現在の奈良市でいうと西のはずれの方にあります。平城宮とはすなわち天皇が生活し、また国政をつかさどる各種の官衙が建ち並んでいたところ、つまり皇居と官庁街を合わせたような役割をもっていた場所です。

平城宮址
平城宮址

 平城宮の跡は平城京から長岡京に都が遷ったあと荒れ放題になっていたのですが、明治になって棚田嘉十郎という奈良公園の植木職人が奔走して命懸けで保存運動を行い、現在は広大な平城宮跡全体が国有地として史跡に指定されています。正門にあたる朱雀門やいくつかの官衙が復元されているほかは見渡す限り何もない空き地で、犬の散歩に来る人はいても観光客らしき人の姿はほとんど見られません。しかしむしろ何もないからこそ、いにしえの平城京の様子を自由に想像できる場所となっています。観光客が伸び悩んでいる奈良市などでは平城宮全体の復元を国に要望しているようですが、拙速な復元をするくらいなら空き地のままで調査を進め、判ったところからじっくり時間をかけて復元していくのがよいようにも思えます。あるいは本当の復元よりもCGなどでの再現のほうがより優れているのかもしれません。

復元された朱雀門
復元された朱雀門

 ともあれ実際にその場へ来てみると平城宮のイメージがだいぶ具体化していきます。朱雀門の横には軍事機関であった兵部省と文官をたばねる式部省が並び、その奥には国政の場である朝堂院、その向こうには天皇が生活する大内裏。大内裏のさらに裏側の小山は、平安京から都を奈良に戻そうとした平城天皇の陵墓だそうで、都は奈良にかえらずとも天皇の魂は永遠に奈良にとどまったというところでしょうか。

 その後、奈良市の隣にある大和郡山市の方まで赴いて郡山城とその城下町を眺め、帰りに平城京の入り口である羅城門の跡を探しにゆきました。現在は単なる住宅地になっているところでどこに羅城門があったのかは分かりませんでしたが、奈良市街から国道 24号線を3kmほど南下したあたりにあるのは間違いなく、あをによし奈良の都の大きさを改めて実感できた気がしました。【1999.1.4】

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