YAGOPIN雑録

世界あくせく紀行

国父紀念館

● 台北編・前編


「雨の基隆」へ

 翌日は林さんとともに「北海岸一周」のツアーに出かける。今日は平日で八尾さんのご厄介になるわけには行かなかったからである。ツアーの中で林さんは花蓮へいくツアーを強く勧めていたけれどさすがに花蓮に1日で行くのはつらいものがある。台北から花蓮というのは飛行機が飛んでるくらいの距離があるのだ。

 林さんの車は南京路を東へ向かう。2本の高架快速道路をくぐると、向こうに建設中の新交通システムが見えてきた。現在台北近郊ではMRTと呼ぶ新交通システムと地下鉄の合わせて8路線を建設中である。これはそのうちでもっとも早く着工された内湖線の一部である。すでに高架橋は完成し、ブルーのラインを入れた4両編成くらいの試運転車両も走っている。日本の新交通システムにくらべるとやや丸っこい印象だが、これは日本製でなくフランスの方式を採用したからだという。日本の方式を採用しなかったのは台湾の貿易のうち赤字となっているのが対日貿易のみであり、しかもその赤字が他の諸国に対する貿易黒字をすべて消却してしまうほど膨大だからだそうだ。しかし、そのフランス製の試運転車両は運転開始以来、事故続出。おかげでとっくに高架橋はできているのにいまだに開業できないという有様なのである(現在はもう走っている)。その新交通システムの高架橋を過ぎると台北総合運動場が見えてくる。いちばん手前にあるのは「棒球場」、野球場のことである。台湾にもプロ野球があるのだ。さらに真っすぐ(この通りに入ってからずっと直線だった)進むとロータリーで基隆路と合流し、基隆河を渡る。川を渡るといままでびっしりと建っていた建物が急にまばらになった。7~8階くらいの団地みたいな建物が並んでいる。

 いつの間に高速に入ったのか分からなかったが、たしかに今は高速道路に入っている。あいにくの雨模様だ。しかし今向かっている都市は「雨の基隆」の名をもつ港町である。「基隆へ行くには、財布は持たなくても、傘だけは忘れるな」という格言があるくらい。雨の日は年間を通じて平均 200日を越えるという。トンネルで分水嶺を越えるとその基隆市にはいる。高速道路はこの都市が終点である。

北海岸一周ツアーの顛末

 基隆市は我が国の政令指定都市のようになっていて、7つの区に分かれている。人口は約35万人。17世紀にはスペインの拠点となり、アロー戦争後には貿易港として開港。そして日本支配下では日本への入り口として淡水に代わる台北の外港として位置付けられる。東京に対する横浜にあたる都市といえばよいだろうか。地形もやはり横浜の山の手のように山がちで急峻である。我々はその山の上につくられた中正公園をめざしている。が、基隆市内は一方通行路が多く林さんも行ったり来たりである。運河に沿って市内をぐるぐる回ったあとでようやく登り口が見つかる。

 中正公園は基隆版みなとの見える丘といったところである。しかしなぜか公園のてっぺんにはどでかい真っ白な観音様が立っている。これは基隆版大船観音なのであろうか。雨靄の中に基隆市街、その先に掘り込まれた基隆港、そのまた向こうに基隆市街。重要港としてはかなり狭いと思う。東京港や横浜港、神戸港といった大きさはない。だいたい考えてみれば台湾島には広い港を造れるような湾が存在しそうもない。

中正公園の巨大観音像
中正公園の巨大観音像
基隆港
基隆港

 中正公園から基隆駅前を過ぎ、反対側の山に入る。台北と違って大縮尺の地図を持っていないのでどこを走っているのかよく分からない。いかにもアジア風に看板のけばけばしい細い繁華街から起伏の激しい中高層の住宅街を通り過ぎるといつのまにか山のなかだ。基隆市街を抜け出したらしい。林さんは「信州の山の中みたいでしょう」というがこの人は日本には行ったことがないはずである。さっき基隆の港町をみながら子供の頃は大阪商船に入って世界中を旅するのが夢でした、なんていう話をしていたけれど。

 万里という町を過ぎてさらに行ったところが野柳という海岸である。観光バスがたくさん停まっている中に車を停める。入場料を払って海岸へ。ここは台湾北部有数の観光地で、台湾中西部からきた観光客はかならず台北とともにここ野柳に来るのだそうである。バスに書かれた地名を見て林さんが「ずいぶん遠くから来ていますヨ」と言う。この野柳の売り物は海岸に並ぶ奇岩群である。浸食されてキノコ形になった巨大な岩がたくさん並んでいる。雨がようやく止んだので傘をたたんで滑りやすい岩の上を歩く。海は透き通っていてとても綺麗である。向こうに「クイーンズヘッド」と名付けられた岩が見える。散策路の周りに生えている木はタコノキのような亜熱帯性の植物らしかった。

 で、次の目的地なのだが…。車は猛スピードで整備された国道2号線(2という数字の看板があちこち立っていたからたぶんそうだろう)を突っ走る。想像される交通量から考えるとかなり過大ではないかという道幅である。片側3車線くらいある。車は万里から金山・石門・三芝と次々に村を過ぎていく。祖母はすでに寝入っている。僕以上の不眠症である彼女は昨晩ほとんど寝ていないのだ。僕も眠気に襲われる。次はどこだろう。淡水あたりで停まるのだろうか…と、うとうとと考えていると、いつの間にか大きな街のなかにいる。なんと、すでに台北市だ。「北海岸一周ツアー」と銘打っているだけあって結局北海岸は一周しただけだった。あらら。

台湾の「郵局」

 ツアーにはいちおう昼食がついているので、案内されたホテルで食事をとる。ここの中華ははっきりいっていまいちだったが、ピアノの生演奏つきであった。最初は台湾の歌を歌っていたのだが、このホテルは日本人の多いホテルである。やがて、この間、急死したばかりのテレサ・テンの「つぐない」が流れる。ご存じのようにテレサ・テンは台湾の出身。林さんなども「もう二度と彼女のような歌手が出ることはないでしょう。彼女のお葬式は蒋介石以来の大きな式になるようです」と言っていた。我々はその歌声をあとにホテルを出た。

 その後、我々はリージェント・ホテルの免税店で林さんと別れた。さらに買い物のあと、祖母は適当なものが見つからなかったから來來シェラトンホテルのショッピング街ににもう一度行きたいと言い出し「あなたは好きなようになさい」と僕は放り出されたのであった。監察院の前で祖母と別れた僕はぶらぶらと台北駅へ向かった。とちゅう郵便局を見つけたので入ってみる。もっとも「郵便局」は台湾では「郵局」というのである。

 僕が入ったのは「復興橋郵局」であった。日本の郵便局は、幼稚園の教室みたいに飾りたてられていたり、牧瀬里穂だの中島みゆきだののポスターが貼ってあったりで賑やかだが、そういうのに比べるとここはまったく事務的で、なんとなく殺風景である。なんの気なしに入ってしまったがなんにもしないのもおかしいのでとりあえず切手を買うことにする。郵便の窓口と思われる場所で「テン・ダラー・スタンプ」と叫ぶとちょっとした混乱のあとで鹿の絵がついた10元切手が手渡された。ちなみに日本の郵便局は赤がシンボルカラーで、ポストも真っ赤だが、こちらでは緑が郵便局のシンボルカラーである。ポストも通常郵便用は緑色で、赤いのは速達用となっている。

台北駅

 復興橋郵局を出て、昨日の国父史蹟紀念館の前へ。開いていたら入ってみようと思ったが今日は月曜で休館日だった。中山路から折れてタクシー乗り場の方へ出る。目の前に駅がそびえている。

 台北駅(台北火車站)は1989年9月に地下化された。そしてその地下駅の上に巨大な駅ビルが建っている。屋根が中国風になった東洋・西洋の折衷建築だが、どうも評判の方はあまりよろしくないらしい。駅には東西南北4方向から入れるが、現在いるタクシー乗り場はその駅ビルの東側の出口に面している。西側もやはりタクシー乗り場で、さらにその西には汽車站…すなわちバスターミナルがあり、高雄行きの国光号もここから出る。駅の南側は広場になるらしいが今のところは地下鉄の工事中である。清水建設と太平洋建設の日台共同事業体が請け負っている。なお、国鉄の地下駅の下にもすでに地下鉄のホームが完成しているらしい。この地下鉄は淡水線といい、台北と古い港町・淡水をむすぶものである。1988年までは国鉄淡水線が同じ区間を走っていたのだが、これを廃止して地下鉄に切り替えようということらしい。

 駅の内部は1階から天井までがずっと吹き抜けになっていて明るい。その吹き抜けの真下、駅の中央が切符売り場になっており、窓口の上に出発列車の一覧が表示されている。2階以上はショッピング街になっているらしい。自動券売機で切符を買う。とりあえず隣の松山駅まで13元。ところが出てきた切符をよく見ると「復興」の文字がある。復興号というのは台湾の特急列車の1つで、どうも僕は特急料金込みの買ってしまったらしいのだ。その証拠に隣の券売機では松山までの運賃は10元と表示されている。その時は損をしたと思ったが、東京に帰ってから調べてみると、これでよかったらしい。つまり台湾の列車種別は大きく特快(特別快速でなく日本の特急に相当)・快車(急行)・普通車(各停)に分けられ、さらに各駅停車のうちでも台北近郊の電車は「通勤電車」という別の種別として区別されている。そして特快は早い順に「自強号」「莒光(きょこう)号」「復興号」と分けられる。てっとり早く言えば「のぞみ」「ひかり」「こだま」みたいなものだが、これらはそれぞれ運賃が違い、早くなるほど高くなる。快車と普通車は料金が同じだから、結局のところ運賃は4種類ということになるが、通勤電車は普通車の運賃ではなくどういうわけか復興号の運賃を取られるのである。台北付近の各駅停車は半分以上が「通勤電車」であり、僕が乗ったのもそうだったから「復興号」運賃を支払ったのは何ら問題なかったのだが、それでもやっぱり「通勤電車」で特急運賃を支払うのは不可思議である。

台北駅
台北駅
台北駅内部
台北駅内部

 で、その切符をもって地下1階の改札口へ。地下も地上同様にだだっ広くて待合室のようになっているのだが、そのわりに照明の数が少なくやたらに暗い。はさみで切符を切ってもらい、中に入る。が、どのホームにいけばいいのかよく分からん。ホームは第1ホームから第4ホームまであり、それぞれ左右が1A・1Bとなっているので、日本式に言えば1番線から8番線まであるわけである。とりあえず適当に4番ホームに降りていくと4Bに通勤電車の樹林行きというのが停まっている。樹林というのは知らない地名だったので乗らないほうがいいなと思ったらやっぱり反対方向だった。危ない危ない。

6.4kmの鉄道旅行

台北駅の地下ホーム
台北駅の地下ホーム

 ここで台湾の鉄道網について簡単に述べておこう。台湾の鉄道網は九州とのアナロジーで考えると分かりやすい。すなわち基隆(門司)から台北(博多)、台中(熊本)を経て高雄(鹿児島)に至るのが国鉄西部幹線(鹿児島本線)であり、基隆の次の八堵(小倉?)から宜蘭(大分)、花蓮(延岡)を経て台東(宮崎)に至るのが東部幹線(日豊本線)である。高雄(鹿児島)と台東(宮崎)の間の南廻線は一部未完成だったが、つい3~4年前に全線開通し、現在は台中(熊本)発、高雄(鹿児島)経由の台東(宮崎)行きなどという自強号も走っている。他にローカル線が3本と林務局運営の阿里山登山鉄道がある。なお電化されているのは西部幹線(鹿児島本線)のみであり、基隆(門司)~台北(博多)~新竹(久留米)で走っている通勤電車と西部幹線の自強号が電車である。そのほかは、東部幹線と南廻線の自強号がディーゼルカー、莒光号と復興号は客車、普通車と快車はディーゼルと客車の併用らしい。

 さて台北駅に戻る。3Aに停まっているのが自強号らしい。僕は2Aの基隆行き通勤電車に乗った。4両編成、グレーのシートがビニール張りである以外は日本の通勤電車とあんまり変わらない。席はいっぱいだったので小さな吊り革につかまる。車内広告のたぐいは何もない。ほどなく発車。長~いトンネル区間である。次の松山まで6km以上にわたって駅がない。手元の「旅に出たくなる世界地図」には間に華山という駅が載っているが今はなくなったようである。台北市の中心街を抜けたところで地上へ。今まで複線だと思っていたら、目の前にもう1つの複線が現れた。実は複々線だったらしい。地上に出るとすぐに松山である。電車はすーっと減速して松山駅3番ホームに到着した。周囲の中国人に交じって降り立つ。ドアは手動か半自動だったような気がする。

 松山駅の構内は広い。ホームもやはり4つ(8番線まで)ある。地下の台北駅では折り返しが困難なので、西部幹線の列車の多くは台北を通り越してここで折り返す。さっきの九州アナロジーでいうと、鹿児島本線の「つばめ」が吉塚で折り返すようなものである。逆に日豊本線の「にちりん」も南福岡あたりに相当する板橋折り返しである(うーん、ここまで来ると完全に九州ローカルだな…)。駅舎はホームの上空にあるタイプの駅。と思って階段を登り上の改札で切符を提示したら文句を言われた。よく見るとこちらは入口専用で、出口はそこからまた別の階段を降りた地上にあるらしい。日本では見たことのない構造の駅なので間違えてしまった。なんとか駅を出ると大きな広場に出る。だいぶ町はずれにきたと思ったが、それでもかなり都会的である。タクシーが走り回っている。ここからは台北の新都心といわれる信義区の方へ行ってみようと思うのだが地図を見ると松山駅からは2kmはありそうなのでタクシーを使ってみることにする。ちょっと手を挙げるとすぐに黄色のタクシーがとまってくれた。

タクシーにて

 タクシーのドアを手で開け、乗り込んで運ちゃんに「チュンシャンコンユェン」と告げた。けげんな顔をする運ちゃん。しかたなく今度は「中山公園」と書いたメモを手渡す。中国語の発音は難しい。書いた方が確実だ。と、思ったらその運ちゃん、メモを手にしたまま、まだけげんな顔をしている。おいおい…。うにゃうにゃうにゃ、と僕に話し掛ける。はぁっ? …今度は「キャニュースピークチャイニーズ?」ああ、これなら分かる。「ノー、アイムァジャパニーズ」ようやく意思疎通。しかし問題は何も解決していない。僕は昭文社の地図を広げて目的地を指差した。しばらくして運ちゃん納得。メーターを倒して、出発である(あとで聞いたところによると中山公園は普通「国父紀念館」と呼ばれているので中山公園では通じなかったらしい)。

 やあ一安心と思ったら、また運ちゃん話し掛けてくる。「なんちゃらかんちゃらエクスペンシヴ…」。どうも日本は物価が高いということを話しているらしい。ならばこっちも、とばかり「ハヴユーエバービーントゥージャパーン?」。おお、なんと教科書英語そのまんま。運ちゃん、ひとしきり考えたあと「ノー」。こんな調子で分かってんだか分かってないんだか分からんような会話が続き(僕は日本のタクシー代がいかに高いかということを説明した、つもりだった)ようやく公園に到着した。「ディスイズパーク」ふーん、パークねえ。「ディスイズパーク!」あっ、そうかここで降りるんだった。オートドアーじゃないので降りるタイミングが難しいのだ。メーターを見て65元を支払う。なぜか運ちゃん困ってる。「…スモールマネー?」えっ何なに?ちゃんと65元払ったでしょ?と思ったら僕の支払ったのは1015元だった。1000元札と50元札は色が似ているので間違えてしまったのだ。トホホ…。というわけで最初から最後まで莫迦丸出しのまま、僕は「いやー、サンキュウ、謝謝、どうもどうも…」とタクシーを降りたのである。

 苦労の末?中山公園に辿り着いた。さっきも書いたとおり国父紀念館のあるところ。国父紀念館は孫文先生の記念館だが、やはり予想通り外見がでかくて中身はそれほど見るべきものがない。ここへは黒い学ランの修学旅行生とおぼしき学生たちも見学にきており、びしっと孫文像の両脇に立った衛兵も学生に取り囲まれて迷惑そうにしていた。朝は雨模様だったのに今は天気は悪くない。紀念館の前の花壇のサルビアが燃えるような色を放っている。

 この国父紀念館のある信義区は台北の新都心である。中山公園の隣には市中心部から移ってきた新しい市議会と市政府の建物が建っている。どっかの庁舎と違ってびよーんとやたらに高いということはなく、どっしりと落ち着いた建物である。市政府の前には黄色のタクシーがたくさん停まっており、運転手が旗をかかげて庁舎の前に集合していた。デモかなんかだろうか。ちなみにタクシーの運転手は台湾ではひとつの政治勢力とも言えるほどの力があり、こうしたタクシー運転手たちが、この前、ようやく官選から民選になった台北市長選挙で野党・民進党を勝たせる原動力となったともいう。選挙中、乗客に民進党への投票を勧めたりもしたのだそうである。

国父紀念館
国父紀念館
ハイアット・ホテル(左)と世界貿易センタービル(右)
ハイアット・ホテル(左)と
世界貿易センタービル(右)

世界貿易センターと台北の街路

 市政府の向こう側は1989年に完成した台北世界貿易センターである。道路の左側は昔ながらの商店街なのに右側には貿易センターの真新しい高層ビルが立ち並んでいる。貿易センターの向こうはほとんどが空き地の続く土地で、ここは新都心といっても新宿のように再開発で出来たところではなく、都市の発展のフロンティア・ラインに造られた新都心であるらしい。そういう意味では臨海副都心に似たものがある。

 世界貿易センターは4つの建物から成っている。世界貿易センター展示館、世界貿易センタービル、台北インターナショナル・コンベンションセンター(国際会議中心)、台北ハイアット・ホテル(凱悦大飯店)の4つである。展示館の中はメッセのようになっているらしい。自動車部品かなにかの展示会を行なっているみたいだったが、中に入ることは出来なかった。世界貿易センタービルは台北でおそらく2番目に高いビル。外貨保有高世界一になるほどに躍進した台湾貿易のシンボル的存在である。

 世界貿易センターからは信義路を歩く。一転してごちゃごちゃした街並に戻る。街路樹は、がじゅまるだったと思う。がじゅまるといえば夢の島の熱帯植物園で見たきりだったからこんなところで街路樹になっているとは驚きである。郵局のところで曲がり、次第に細い道に入っていく。ついに方向が分からなくなったが構わずに歩く。なんとなく庶民的な商店街を抜けると大通りに出た。仁愛路である。広い。幅50mくらいはありそうである。この通りに限らず、台北はどこへ行っても道路が広い。「路」とつくメインストリートはほとんど幅40m以上あるみたいだ。幅20mに満たない通りが多い東京の山の手と比べると雲泥の差である。しかし逆に通りが広かったからこそ地下鉄などの大量輸送に適した公共交通機関の整備が遅れたのかもしれない。自動車中心の交通事情は深刻な大気汚染の問題も引き起こした。これからの交通整備によって台北はどう変化していくだろうか。

 この通りは街路樹が大きく道路の向こう側までが林になっているみたいである。5列ぐらいある並木道。とはいえ交通量はやはり多いのだが、車の列の中、なんと中央分離帯で犬が2匹でXXしていた。そういえば台北市街では犬をよく見かける。ひもでつながれて散歩しているわけではなく勝手に散歩しちゃっているのである。野良なのだろうか。 

 さらに歩いていくと巨大なロータリーにぶつかった。地図で見るとまさにミステリーサークルといった感じなのだが、実際にいってみるとなんということはない。ロータリーの中心には髭をはやした老人の像が立っていたが誰の像だかは分からなかった。そろそろくたびれたのでタクシーに乗る。試しに「ヒルトンホテル」と言ってみたが通じなかったので「希爾頓大飯店」と書いたメモを見せる。さすがに今度は通じた。一直線の道路を快調にとばす。ラジオで流れているのは吉幾三の「酒よ」である。ただし中国語、デュエットで歌われていた。MRTの高架橋を越えると道幅がさらに広がる。おそらく100m道路である。さらに行くと林の中から総統府の塔が現れる。地図を見るとこの仁愛路は総統府から市政府までをつないでいるのだ。総統府を右折するとヒルトンはすぐ近い。駅前は混んでいたので手前で降ろしてもらった。

旅の終わり

ホテルの屋上から見た台北市街
ホテルの屋上から見た台北市街

 八尾さんとともに台北最後の夕食へ向かう。入ったのはお粥の専門店である。お粥をお代わりしながら他の料理をトッピングして食べる。台湾は米は日本ほど美味しくないといわれているので、ご飯自体が出てくるよりは、このようにお粥になったり、あるいは混ぜご飯として出てくることが多いようである。

 最後の夕食も美味しく頂いたあと、八尾さんが「食後にお茶でもどうですか。この近くのホテルのチーズケーキがなかなかいけるのですが」とおっしゃるので、近くのホテルでしばらく時を過ごす。八尾さんの言「日本と台湾とは直接の国交はありませんが、しかし日本と台湾の経済交流は、日本と大陸よりも多いのです。現実問題として日本は大陸とともに台湾も重視しなくてはならないと思えるのですが」。なるほど日本・アメリカは台湾と断交し、また近年では韓国も台湾から大陸へと中国政策を転換している。しかし大陸の方はこれからの発展に至るまでまだまだ紆余曲折が予想されるのに対し、台湾は経済の高度成長と政治の民主化をほぼ達成しつつある。八尾さんは今の台北が東京オリンピック当時の東京のようでしょうといっていたが、たしかにこの分でいくとあと一息で先進国の水準にまで達するのではないかという気もする。

 八尾さんとは、また東京で会いましょうといって別れた。翌朝、今度は林さんが迎えにきた。別れ際に林さんから聞いたところでは、林さんはもともと花蓮の大理石製造会社の社長であったのが、引退した後で友人の旅行会社に雇われているのだそうである。時折ガイドらしからぬミスがあったこと、花蓮へのツアーを強く勧めたこと、はじめ同僚に「社長」と呼ばれていたことなどの謎が一挙に氷解した。

 1995年(平成7年)5月16日火曜日、台湾時間より1時間早い日本時間の17時13分、僕は新東京国際空港に降り立った。小雨がぱらついている。今朝、某宗教の教祖が逮捕されたそうだ。成田ではなにか爆発事件があったらしい。どうも今回ばかりは旅行から帰ってほっとする、という具合にはいきそうもないようだった。

【完】

前へ ↑ ホームへ   次へ
前編 中編 後編