YAGOPIN雑録 世界あくせく紀行
 
 ● 台北編・前編
 
 
 ● 旅の始まり

 なんか突然台北にいくことになってしまったのだ。

 いきさつはこうである。僕の小学校のときの友達のお父さんで、父の将棋友達、あるいは母の親友の旦那さんである八尾さんという方が単身赴任で長いこと台北にいるのだが、その八尾さんが近いうちに日本に帰れるらしいということになって、台湾に遊びにくるなら今のうちですよというお誘いが我が家にあったのだ。ところが、そのお誘いに真っ先に飛び付いたのが八尾さんとはまったく関係のない僕の祖母だったのであり、しかして我が家の中でももっともヒマそうであった僕が体のいいダシとして祖母に同行して台北まで行くことになっちゃったのである。というわけで僕にとっての初めての海外は台湾ということになったのであった。

 1995年 (中華民国84年)5月13日土曜日。日本時間より1時間遅い台湾時間の12時50分、僕は中正国際空港に降り立った。曇り空。暑い。考えてみればここは北緯25度。宮古島や硫黄島とおんなじくらいの緯度である。なんとなくがらんとした中正空港でガイドさんを探す。いちおうツアーなのだが、なんとこのツアー、参加者は祖母と僕のわずか2名。世の中にそうそうヒマな人間はいないことを思い知らされる。出迎えてくれたガイドさんは鶴のように痩せた初老の男性だった。ほかのガイドからは「社長」と呼ばれている。ツアー客が4名以内のときはこの人が自分の車でガイドを引き受けているということで、空港の前に停まっていた車でさっそく出発した(さっそくとかいいながらいろいろと手違いがあって実は到着から出発まで50分もかかったのだけど)。

 林永輝さんというそのガイドさんは10歳ぐらいまでを日本の占領下で暮らしたために日本語が非常に達者である。というより林さんの世代だと、生まれてはじめて覚えた言葉が日本語であり、その後に北京語を覚えさせられたので日本語より北京語に苦労させられたらしい。ついでながらこの年は下関条約によって台湾が日本の植民地となってから100年であり、そして台湾が日本の敗戦によって植民地支配から解放されて50年という、まさに台湾にとっては節目の年であった。車はハイウェイを飛ばす。実は中正空港から台北市内までは約40kmあるのである。もともと台北の国際空港は市内の松山空港(日本の松山と関係がないわけではない)だったのだが1979年に台北県の隣の桃園県に中正国際空港が建設され松山空港は国内線専用になった。ようするに成田空港と極めて似たロケーションにあるわけだ。中正というのは1927年から死去する1975年まで中華民国の指導者だった蒋介石の本名である(ちなみに中華民国をつくった孫文の名が中山であり、この中正と中山はよく地名などに出てくる)。

 ハイウェイは機場I.C.から中山高速の本線に合流する。いままで走っていたところは空港へつながる支線部分である。ここからはいきなり道幅が広がって片側4車線。交通量もぐんと増える。桃園県の中心都市・桃園市が南の方に見える。ずいぶんと高層建築が建っている。「最近は桃園に住む人も増えたネ」と林さん。桃園を過ぎるとしばらく山のなか。泰山料金所で40元(約\140!)を払う。林口・五股を通り、台北の衛星都市・三重。この付近では並行して高架の高速道路を建設中。片側4車線でも足りていないのだから驚きだ。そして淡水河を渡ると台北市。台北I.C.からハイウェイを降りた。

 ● 台北の第一印象

 台北I.C.につながる道路は重慶北路という。「路」は大通りのことでさらにそれより小さい道は「街」「巷」などと表現される。住所も道路名称を使って「台北市長春路」とか「台北市農安街」とか表される。道路は碁盤目状なので京都と同じく交差する道路を並べて「吉林路民生東路」というような表現もされるらしい。とにかく台北では場所を表すのに道路で表す場合が圧倒的に多いのである。したがっていちおう区制が敷かれているにもかかわらず住所に区を書くことはまずない。必要ないのである。それから道路の名称だがこれは今通っている重慶路のように大陸の地名をついているものが多い。賑やかな南京路をはじめ長安路・漢口街など…。孫文の唱えた三民主義に基づく民族・民権・民生の3つの通りや儒教の八徳に基づく忠孝路・信義路などもある。このように台北市内は全般に恣意的に付けられた地名が多いような気がするのだが古くからの地名というのは存在しないのだろうか。

 「麥當勞=マクドナルド」「儂特利=ロッテリア」から「サークルK」「セブンイレブン」「全家便利商店=ファミリーマート」あるいは「吉野家」(ちなみに牛丼並が日本円で\250弱である)といった日本でもお馴染みの店も多いこの重慶北路をだいぶ南下すると、ロータリーにつきあたった。台北市内にはいくつかロータリーがあるがここは特別である。つまりロータリー自体が小さなお店の集まりになっているのだ。「これが円環ですか」「よく知ってますネ(そりゃ地図に書いてあるんだから…)。昔はここもにぎやかだったけど今はここの店を全部取り壊してしまおうという計画もありますヨ」といいながら林さんの車は円環をまわって南京西路に入る。南京路はこの時は気が付かなかったがあとから考えると台北のメインストリートの1つというべき道である。我々の車はこの大通りに面した「長龍藝品公司」という看板の前で停まった。

 ● 台北の交通事情と中国人のサービス観

 ここでまず言っておきたいのは台北の人には交通マナーという観念がまったく欠如しているということである。街中には「尊重生命・關懷交通」だとか「快快樂樂出門・平平安安回家」だとかの交通標語があふれているけれど、車もバイクも(台湾人3人に1台にバイクがあるらしい。とくに原チャリがメチャクチャ多い)マナーはおかまいなしに走り回っている。林さん「台湾では車は技術じゃなくて度胸で運転します」しかもいちばんマナーの悪いのが大型バスだそうで、ここでは本当に強いものが強い…つまり歩行者はこの交通社会では最弱の存在なのである。台北の町では治安は比較的安全なのだが、交通事故の方がよっぽど恐い。なにせ信号青で渡っても危ないというくらいなのだから。

 ところでなんでこんな話を最初にしたかというと「長龍藝品公司」の前に停めるとき林さんの車、いきなり「どがっ」とやってしまったのである。後の車に激突(といってもバンパーが傷ついただけだったけど)。しかし当の林氏、まったく何事もないといった表情で車を前にずらして「さあ、いきましょう」である。まあ、このくらいのことはよくあるんですよ、と林さんの車のいくつかの古傷が物語ってはいたけれど。

 それで、我々がここ「長龍藝品公司」に来たのは両替のためであった。が、「藝品公司」というのは要するにお土産屋さんである。まだ台北についたばっかりでお土産なんか買うはずないのに日本語の話せる店員が祖母にマンツーマン攻撃を仕掛けてきた。ところが日本だったらこういう場合、あ〜ら奥様、こちらがお似合いでございますわよ…、とかなんとかそういう具合になりそうなのだが、この店員のおばはんは全く無愛想で、なんかもう、なんで台北まで来てこんなおばはんにつきまとわれなきゃならんのだ、という感じなのである。しかし。3〜4日台湾にいたらこの感覚が少しずつ分かってきた。つまり中国語で「サービス」は「服務」である。したがって中国人はうわべだけのいわゆる「サービス」という考え方をもっておらず、「服務」すなわちお客に求められなくともきちんと仕事をすることがサービスだと考えているのである(と思う。違ってたらごめんなさい)。だから食べ物屋なんかでも湯呑みが空になっていると頼まなくても店員がやってきて(無言無愛想のまま)お茶を注いでくれるし、空いた皿があると(やはり無言無愛想のまま)さっさか片付けていくのである。これはこれで文化の違いなのだなあと感心した僕であった。

 ● 忠烈祠

 というわけで福澤諭吉2人が、何人かの蒋介石と孫文に化けてしまった。1000元札と500元札が蒋介石で100元札と50元札が孫文である。再び車に乗って次は「忠烈祠」へ。新生北路から「高架快速道路」に上がる。これは東京の首都高速みたいなものだが料金はタダである(もともと首都高も建設費が償却されたらタダになるはずだったのだけど)。しかしただいま渋滞中で忠烈祠に到着したのは予定の15時に5分ほど後れてしまった。そう、ここに15時に来たのにはわけがあるのである。毎時ちょうどに行なわれる衛兵交替を見るためなのだ。ここの衛兵は中華民国陸海空軍のエリート中のエリートであり、1時間の間、直立不動で微動だにせず忠烈祠を守っているのだ。その衛兵交替の儀礼とは…あっ、ほら忠烈祠のほうから5人の兵隊が行進してきました。一糸乱れぬ隊列で門のところまで。そしていままで人形のように動かなかった門の前の2人の衛兵がまったくシンメトリックにびしっびしっと台を降りて5人のところへ。そしてその2人と交替要員の2人が銃剣を放り投げたり回したりして敬礼。そして交替要員の2人がまた、だんっだんっとシンメトリックに台に上って固まってしまう。ここまで何の号令も合図もなし。でもタイミングがぴったりなのには敬服する。

 この忠烈祠は戦死兵を祀ったものなのだが林さんが「さあ終わったから行きましょう」とせかすので結局お参りせずにさっさといってしまう。まわりの観光客もやれやれといった表情で立ち去っていく。ほとんどの人がこれだけを見にきたという感じである。我々も忠烈祠から次の日に訪れることになる巨大な円山グランドホテルの前を通って中山北路を南下し再び市の中心部へ向かう。円山グランドホテルはかつて台湾神社のあったところに建てられた半国営の大ホテル。中山北路も日本植民地時代にもともと勅使の往来のための「宮前通り」として建設された、台北の大通りのなかでももっとも古い通りの一つである。現在は大阪の御堂筋に似た4列の並木道(3線道路という)になっているが、並木の種類が我が家の前の通りと同じ「タイワンフウ」の木だったのがちょっと嬉しかった。

忠烈祠の衛兵交替
忠烈祠の衛兵交替

 ● 台北城と後藤新平

 中山北路は東京の中央通りみたいな道路である。国賓大飯店やリージェントホテルのような大きなホテルも並んでいる。しかもこの通り沿いには「洋服の青山」まであったりする。日本の青山と全く同じデザインのでっかい看板。台北でもスーツ1着が1万円でできるというので「開店当初は」行列のできる大人気だったそうだ。そして数年前地下に潜ってしまった国鉄西部幹線をまたぐ高架橋を渡ると官庁街である。行政院(内閣)・監察院(会計検査院みたいなもの)・立法院(国会)・教育部が並んでいる。監察院などは日本時代のもので東京駅みたいな赤煉瓦の建物である。ルネッサンス様式というやつなのかしら。そのとなりとお向かいは台湾大学病院。ベージュのタイルに包まれた高層の病院が何棟もどどーんと建っている。

 と、台大病院前を過ぎたら景福門、いわゆる東門が見えてきた。この門は1882年に造られた台北城の門である。台北はかつては中国の古い都市の形式を踏んで、城壁に囲まれた都市だった。それがのちの東京市長・後藤新平が台湾民政局長だった時代に城壁の撤去がなされ、その跡地が3線道路になったのである。ちなみに1990年の台北の区域変更以前にはかつての台北城の区域は「城中区」と呼ばれていた。今は古亭区との合併によって「中正区」となっているのだが。

 なお後藤新平が児玉総督のもとで台湾植民地の執政を行なっていた時代(1898〜1906年)は、台湾植民地経営の基礎が築かれた時代だといわれる。三大事業(鉄道・築港・土地調査)を軌道に乗せ、三大専売法(阿片・樟脳・食塩)を成功させた後藤の能力はたしかに一定の評価を与えてしかるべきであろうし、また朝鮮などとくらべ台湾経営が「相対的安定」を得たのも後藤の力が大きかった。しかしあくまで植民地は植民地であってやはり後藤の時代にも当然暗い部分というものがある。1901年からのいわゆる土匪招降策はある種、残虐かつ卑劣な処置をもって行なわれたところもあるし、また保甲制度などの隣保制も警察政治とあいまって非民主的な印象を我々に与える。あくまでもそれは植民地支配にほかならなかったという歴史的事実を、我々はけっして忘れてはならないと思う。

 ああっまた話がずれた。東門の話だった。林さんの説明「この門は台北城の4つの門で唯一古い門が残っています」。だけどこの説明は間違っている。古い門が残っているのは北門で、この東門は1967年に造り直された全然新しい門なのである。台北城の門が4つっていうのも違ってて本当は5つある。僕はこのとき「あれっ。この人本職のガイドにしてはちょっとおかしいぞ」とギモンに思っちゃったのだが、このギモンは最後の最後になって解けたのであった。

 ● 中正紀念堂

 東門を過ぎると左手に中正紀念堂が見えてきた。中正紀念堂は1980年に完成した蒋介石の記念館である。紀念堂と正門は青い屋根に白い壁。これは国民党の青天白日旗を象徴しているそうだ。左右に建つ黄色い屋根の建物は国家音楽庁と国家戯劇院、似た建物だが屋根が音楽庁の方は入母屋、戯劇院の方は寄せ棟になっている。どちらも1987年開場。広場を囲んで4つの新しい中国風巨大建築が並んでいるのはまさに壮観というほかない。「停車場」(駅ではなく駐車場のこと)が少ないため街中至る所に車がとまっている台北市中にあってもさすがにここの正門前は駐禁なので横へ回って車を停め、大忠門から中へ。目の前にそびえる高さ70mの紀念堂へ入る。しかし外見の壮大さに比べると外国人の僕にとってあまり興味をひくものはなかったようにも思えた。蒋介石の愛車だった古めかしいキャデラックが展示してあったり、蒋介石の事績が絵に描かれていたりするくらいである。

 その中正紀念堂の前では大勢の人たちが集まって太極拳を演舞していた。中正区なんとか…という旗が翻っていたところをみると区民団体かなんからしい。その後には台湾原住民の民族衣装を着た人たちがいっぱいいた。とにかくだだっ広いこの紀念堂前の広場では、こんな風にいつもいろいろな催しが行なわれているんだろう。この広場も含めて紀念堂の建っている敷地は全体として南北が350m、東西が700mくらいあるのだが、紀念堂が建設される前は何があったか疑問に思ったので林さんに聞いてみると…「なんにもありませんでした。イナカでしたから」 台北都心のどまんなかなのにほんとだろうかと思って後日しらべてみると、どうも昔は練兵場があったところらしい。

蒋介石のキャデラック
蒋介石のキャデラック
太極拳を演武する人々
太極拳を演武する人々

 さて中正紀念堂からは車で都心部を回る。東門の正面は総統府。昔の日本の台湾総督府の建物だけれど戦争中に外壁を残して焼けてしまったので内部はあとから修復されたものである。左右に長い赤煉瓦建築に、高くて細い塔がそびえている。いかにも権威主義的な感じの建物である。総統府の左は司法院、右は台湾銀行と中央銀行。たぶんどれも「日據時代(日本による植民地支配の時代)」の建物であろう。かつての城中区は日本統治の中心地帯であり、町名も昔は本町、乃木町、明石町、栄町などとつけられていたのである。車は台湾銀行の裏の繁華街で停まる。お茶の時間である。林さん「このあたりは日本人の住んでいたところで、今の住人は終戦で本土へ帰った日本人のあとへ住みついた人ばかりです」そんな説明をききながら階段を上がって、とある茶店へ。ピーナッツのせんべいみたいなお菓子をかじりながら烏龍茶を飲む。急須に入れてからきちんと時間を計っていれたりするのが本格的である。2煎目から3煎目がいちばん美味しいのだそうで3杯頂いて店を出た。

 ● 八尾さん登場

 このあとは「行天宮」の前まで行ったのだが、車を停められないという理由でこの日は中へ入らなかった。結局そのまんまホテルまで戻ってきてしまう。なんか市内を行ったり来たりである。ホテルはヒルトンだが、正確には「台北希爾頓大飯店」という。ちなみにハイアットは「台北凱悦大飯店」。発音はそれぞれ「シーアートゥン」「カイユエ」だそうである。ヒルトンは台北駅のまん前に建っているので、バスとタクシーと買い物客でごった返している駅前の道路をかきわけてどうにかこうにかホテルの前に駐車する。このホテルは場所はいいのだけれどもスペース的にはほんと余裕がない。車寄せみたいなものがなんにもないのである。ホテルに入るとあとは林さんがチェックインの手続きをしてくれたので辺りをぼんやり見渡しているとなにやらせかせかと動いている眼鏡をかけたおじさんが目に付いた。あれっ?

 「すいません。八尾さんじゃありませんか?」「ああっ! YAGOPINくんだね。いや、よかったよかった!」空港のところでも書いたとおり旅行社の方でちょっと手違いがあったのでホテルに尋ねてもYAGOPINなんていう人は予約にないといわれ焦っておられたのだという。祖母が八尾さんとあいさつしたあと今度は八尾さんはチェックイン手続きをしている林さんとなにやら中国語で話しはじめる。いままで我々とは日本語で話していた林さんと八尾さんがとつぜん中国語で話すのはなんだか奇妙だったが、台湾に10年近くいるだけあって八尾さんの中国語はさすがに流暢である。しばらくして林さんから八尾さんへ、我々というお荷物の引渡しが済み、我々は八尾さんと今後のスケジュールを確認する。八尾さんはわざわざ綿密なスケジュール表をつくってきてくださったが、その内容については次回以降にお話することにしてとりあえず今回はこの辺で。

 
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