YAGOPIN雑録

世界あくせく紀行

スターフェリー

● 香港編・昼の部(午後)


 総督府からシティバンク、中国銀行タワー、長江集団といった香港内外の大企業が集まる通りを下っていき、シティ・ホール(大会堂)に向かう。日本では、市役所の訳がCity Hallとなっているが、どうもこれはアメリカ英語らしく、香港のシティ・ホールはコンサートホールや劇場などが集まる文化施設である。逆に香港で市役所にあたるものが何かと言えば、それは特別行政区政府の庁舎ということになるのであろう。

飲茶
飲茶

 シティ・ホールに来た目的は飲茶であった。ここのレストランの窓からはヴィクトリア港と対岸の九龍半島が見渡せる。丸いテーブルの上には中国茶の入った急須と茶碗、そしてあっという間にたくさんの点心が並んだ。点心は、ワゴンを押して店内を巡回しているおばさんから好きなものをもらう。中にエビの入った揚げワンタン、フカヒレか何かのスープに浸かった水餃子、牛肉の入った腸粉(チョンファン。米の粉を蒸してクレープ状にしたもの。)等々、一品17ドルから39ドル(約272円~663円)。なんだか茶色っぽい品ばかりで見た目はあまり美味しそうに見えなかったが、どれも口に入れると想像以上の味と食感でたいへん美味しい。デザートは、餡とタピオカの入った焼きプリンだった。

湾仔附近
湾仔附近

 香港上海銀行の本店前にある「滙豊総店」電停からトラム(路面電車)に乗った。香港名物のこのトラムは1904年から運行されているもので、香港島北部を堅尼地域(英名Kennedy Town)から筲箕湾(シャウケイワン)まで走っており、別に競馬場のある跑馬地(英名Happy Valley)への支線がある。現在のように2階建てとなったのは1912年からである。香港ではバスも2階建てのものが多く、おそらくロンドンの2階建てバスと何らかの関係があるものと思われる。1972年までは2階と1階の3分の1が1等席で、1階の残りが3等席になっていたらしいが、今は1等も3等もなくすべて同じ席である。観光客なので、当然2階の1番前に陣取る。ずいぶんと旧式の電車で、かなりの騒音と振動を発生させながらゆっくりと走る。1km半ほど先の「湾仔(ワンチャイ)」電停で2ドル(約32円)払って降り、ビジネス街の中環とは打って変わった下町の混雑の中に紛れ込んだ。道路には野菜やら魚やら豚の足やら頭やら、何の卵だか分からない卵とかタツノオトシゴの干物まで、もうありとあらゆる品物が並べられている。大通りに出ると今度は道路に品物が並ばない代わりに道路上空に横長の巨大な看板が並んでいる。これだけ看板が並ぶと後ろの看板が前の看板に隠されてしまい、あまり意味がないような気もする。ほとんど意地の張り合いみたいな感じだし、落下の危険もあるので、本来なら当局が規制すべきもののように思うが、この巨大看板も香港の一名物であると言えるので、敢えて放任しているのかもしれない。よく見ると漢字が左から右へ書いてある看板と、右から左へ書いてある看板があり、あるホームページには広東系の住民と台湾系の住民で書き方が違うと書かれていたが本当だろうか。

 崇光(そごう)や三越など日系のデパートもある繁華街・銅鑼湾(トンローワン、英名Causeway Bay)でちょっとお茶を飲んでから、ヴィクトリア・パーク(維多利亜公園)に向かう。この公園もヴィクトリア・ピーク、ヴィクトリア港と同様、香港領有時のイギリス女王・ヴィクトリアにちなむ命名で、以前は皇后像広場にあった女王の像も今はこの公園に置かれている。女王は42歳のときに夫を亡くしたショックで公式の場に姿を現さなくなってしまい、10年以上経って公務に復帰してからも喪服しか着なかったという。この像は50代くらいに見えるから、おそらく喪服をまとった女王の姿なのだろう。女王の腰掛ける玉座には王冠とライオンとユニコーンの装飾がついている(ライオンはイングランドの、ユニコーンはスコットランドの象徴)。

Cross Harbour Tunnel
Cross Harbour Tunnel

 天后駅から地下鉄港島線に乗る。金鐘(英名・Admiralty)駅で荃湾線に乗り換え。海底を横断して九龍半島側の旺角(ウォンコ)駅まで行く。香港島と九龍半島の間にはこの荃湾線のほか将軍澳線、東涌線の3本の地下鉄が通じている。海底には道路トンネルも3本通っていて、これらは有料道路になっており、東区海底隧道(Eastern Harbour Crossing 1989年完成)はニュー香港トンネル会社が、西区海底隧道(Western Harbour Crossing 1997年完成)はウエスタン・ハーバー・トンネル会社が建設・運営を行っている。両社は30年間の契約で香港政庁から道路事業の運営権を与えられており、通行料金で建設・運営費用を回収したのち、香港政庁にトンネルを引き渡すことになっている。いわゆるBOT(Built-Operate-Transfer)方式のPFI(Private Finance Initiative)で、真ん中の海底隧道(Cross Harbour Tunnel)も1969年から1999年まで同様の方式により運営されていたようである。

 PFIは要するに従来、国や地方自治体が行ってきた公共事業の整備を民間会社に行わせる方式で、日本でも1999年にPFI推進法(民間資金等の活用による公共施設等の整備等の促進に関する法律)ができるなど、PFIへの注目が高まっている。しかし民間会社が行う以上、きっちり採算のとれる事業でなければ成り立たず、PFIが導入できるのは極めて必要性が高くて独占的な事業に限定されるものと思われる。30年後まで見据えて需要の予測を行うのも困難なことであって、香港の場合でも、西区海底隧道は、計画交通量1日70,000台に対し、実際には30,000台ほどしか車が通らず、計画通りの事業運営が危ぶまれているようだ。

金魚屋
金魚屋

 地下鉄旺角駅を降りて、通菜街を北に向かう。通菜街は、狭い道路に女性物の衣類などを扱う無数の露店が集まっているため通称「女人街」と呼ばれている。さらに北に進むと今度は金魚や水槽などを扱う店が両側に建ち並んでいる。このあたりは通りごとにスポーツ用品、電気機器、花嫁衣裳などの専門店が集中している地区であるらしい。そしてどんどん北へと通りを歩いていくと、商店街は広い通りにぶつかって終わりになる。この通りをBoundary Street(界限街)といい、九龍と新界(New Territories)の境界(Boundary)であるためこの名がある。先にも記したとおり、香港島は1842年8月に、九龍市街地は1860年10月にイギリス領となった。その後、1898年6月に「香港境界拡張専門協約」が清国とイギリスの間で結ばれ、「植民地の正しい防衛と保護のため」という理由で、九龍半島全体と周辺の島々を含む「新界」が新たにイギリスの支配下に置かれることとなったのである。しかし、正式にイギリスの領土となった香港島及び九龍市街地と異なり、新界については、当時の国際情勢によりイギリスが清国から「租借」するにとどまった。「租借地(Leased Territory)」はあくまで「借り物」であって、しかもこの租借には99年間という期間がついていた。

Boundary Street。左側が新界
Boundary Street。左側が新界

 1898年の99年後にあたる1997年、本来であればBoundary Streetから北側の「新界」のみがイギリスから中国に返還されるはずであった。だが、もともと香港の割譲はアヘン戦争という、当時のイギリス国内でさえ反対論の強かった極めて非道義的な戦争によってなされたものであり、中国政府は新界だけでなく九龍市街地・香港島も含めた一括返還を強く求めた。そしてその結果、1984年12月19日、サッチャー英首相・趙紫陽中国総理の間で取り交わされた合意文書によって、1997年7月1日に香港全土が中国に返還されることが決定したのである。

 返還にあたり、香港は特別行政区として高度の自治を有し、自由主義的な社会・経済制度を50年間は変えないという条件が付けられたため、香港返還後も(少なくとも表面的には)大きな変化は生じていない。しかし、イギリス領であったがゆえの整ったインフラや自由な制度に立脚する香港の繁栄が、今後もずっと続いていくという保証はない。まだまだ発展の途上にある中国に飲み込まれたことで、香港の将来には不安定な要素が付け加わり、一方で中国国内においても、急速な成長を続ける上海が香港の強力なライバルとなっていくだろう。上海のユニヴァーサル・スタジオに対抗して、香港にはディズニーランドが建設されることになったが、旅行先としても香港ならではの魅力がどのくらいあるだろうか。少なくとも日本から出かけるのであれば、韓国や台湾以上のものを香港で得られるかどうかやや疑問に思う。さらにこの旅行から1ヶ月後の2003年3月には重症性呼吸器症候群(SARS)が香港で猛威をふるい始めた。旅行記を書いている現在(2003年5月)、香港では1,600人以上がSARSに感染、そのうちの1割以上が亡くなるという事態に陥っており、キャセイ・パシフィック航空の利用客が通常の4分の1程度まで落ち込むなど香港経済に対するSARSの影響は計り知れないものがある。

新界の街並み
新界の街並み

 Boundary Streetを超えて新界に入ったとたんに建物がまばらになり緑が多くなり、あたりは高級住宅街の様相に変わった。ずっと住宅街を歩いていくと大きな新しいショッピングセンターがあり、その内部は先ほどまで歩いていた九龍地区のごたごたした商店街とは対照的に明るく整然としている。香港の中心部は、高層ビルや高層マンションが建ち並び、看板はひしめき合い、バスも電車もフェリーも2階建てになっていて、いかに高密度な都市を造り上げるかという努力がなされてきたようだ。しかし、一歩新界に入れば都市の密度は急に低くなり、もっと先には地図上ただ一面緑色に塗られているだけの土地が広がっている。東京が東西南北へとアメーバのように広がっていったのと対照的に、香港は上へ上へと積み木のように積みあがっていった。香港島・九龍市街地と新界で植民地の歴史が異なるという香港の特殊事情や、地震の有無、地形の相違などの要因もあるだろうが、少しでも静かで広い場所を求めるか、少しでも近くて便利な場所を求めるか、という居住環境に対する考え方の違いがこの2つの町の違いを形作ったのではないかとも思える。

九広鉄道。写真は一等車
九広鉄道。写真は一等車

 ショッピングセンターの裏には九広鉄道と地下鉄の乗換駅である九龍塘駅がある。九広鉄道の切符を買って電車に乗り込む。九龍半島の南北を貫く九広鉄道は、新界の主要交通機関となっており、中国本土との境界にある羅湖駅までは頻繁に電車が走っている。境界を超えて香港から約2,000km離れた上海や約2,500km離れた北京へ向かう直通列車も九広鉄道を通る。香港側のターミナルは、以前は今朝のスター・フェリー乗り場前にあった九龍駅だったのだが、現在は手前の紅磡(ホンハム)駅が終点である。ただ、その先、紅磡から地下にもぐって尖沙咀東(尖東)駅に至る路線の建設が進められ、最終的には南昌駅まで建設して九龍半島西部に向かう新線との接続が図られる計画になっている。電車が紅磡駅に到着する頃には時刻は17時半を過ぎていた。香港1日散歩はこれでおしまい。いったんホテルに戻って、夕食の店を探すとしよう。

【完】

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