YAGOPIN雑録

この町を歩く

旧寛永寺黒門

● 彰義隊史跡めぐり・3

上野周辺

 地下鉄九段下駅から半蔵門線に乗り、大手町で丸の内線に乗り換えて本郷三丁目駅へ。駅を出て中山道を下っていくと、真っ赤に塗られた大名屋敷の門が見えてくる。金沢藩上屋敷の御守殿門・通称「赤門」で、金沢藩上屋敷の敷地を転用した東京大学本郷キャンパスの代名詞にもなっている。安田講堂の脇から下に降りていくと、金沢藩邸の庭園だった育徳園の名残も残っており、その中心をなす心字池は、夏目漱石の小説『三四郎』に登場することから「三四郎池」とも呼ばれている。

 学生より観光客と思しき人々の多い(我々もそうなのだが。。。)キャンパスの裏手に回ると、はるか遠くに五重塔が見える。上野にある重要文化財・旧寛永寺五重塔である。上野寛永寺に立て篭もった彰義隊に対し、新政府軍は、正面の黒門口に薩摩藩など、裏手の谷中側に長州藩などを配置し、側面の本郷台地には佐賀藩の最新兵器・アームストロング砲を据えて、猛攻撃を行っていた。そして、上野戦争の勝敗を決定付けたのは、両軍の兵器の差、特にここ本郷から不忍池を越えて上野を狙ったアームストロング砲の威力であったと言われている。ただ、こうして本郷から上野を眺めると、500mほどとはいえ、目視ではかなりの距離があるように見える。本当にちゃんと命中したのだろうか。

 それではいよいよ戦場へと向かおう。池之端門から東京大学を出て、不忍池を横断し、弁天島から寛永寺清水堂へと歩く。東叡山寛永寺は比叡山延暦寺になぞらえたものであり、不忍池は琵琶湖、弁天島は竹生島、清水堂は清水寺の見立てになっている。清水寺同様の舞台造となっている清水堂は1631(寛永8)年に建てられた重要文化財で、上野戦争でも焼失しなかった数少ない建物のひとつである。そのすぐ裏手に有名な西郷隆盛の銅像が立っており、あまたの観光客を集めているが、そこからほんの数十歩のところにある彰義隊の墓に足を止める人はそれほどいない。

本郷から上野を見る。
本郷から上野を見る。
寛永寺清水堂
寛永寺清水堂
西郷隆盛像
西郷隆盛像
彰義隊の墓
彰義隊の墓

 このあたりは台地になっており、上野戦争のときは、すぐ下にあった黒門口で壮絶な攻防戦が繰り広げられた。戦争当日の1868年7月4日(明治元年5月15日)、午前中は一進一退を繰り広げていた両軍の戦いも、アームストロング砲の投入であちこちから火の手が上がると、守る彰義隊側が混乱し始める。その混乱を突き、午後にはついに防備が破られ、夕刻、彰義隊は根岸方面へと壊走した。新政府軍は根岸側に軍を配備せず、彰義隊の退路としてわざと空けていたのである。こうして、わずか半日で戦いは終了した。残された遺体はそのまま放置されていたが、それを見かねた三ノ輪円通寺の仏磨和尚が供養し、火葬に付して円通寺に葬った。そのとき、火葬を行ったのが、この墓のある場所である。墓が建てられたのは1874(明治7)年になってからだったが、そのときでもなお世をはばかって、墓石には単に「戦死之墓」という文字のみが彫られ、彰義隊の名は別の墓石に彫って地中に埋められた(今はどちらも表に出ている。)。ちょうどお彼岸でもあることであり、ゆっくりお参りしていく。相澤も珍しく神妙な顔をしていた。なお、相澤の信奉する原田佐之助は上野戦争で重傷を負い、2日後の7月6日(5月17日)に亡くなったとされている(もっとも、生き残って中国大陸にわたったという源義経ばりの伝説も残されているのだが。)。

 彰義隊を攻撃した薩摩の西郷隆盛の銅像が、彰義隊の墓のすぐ近くに立っているのは不思議な感じもするが、西郷隆盛もやがて明治政府と対峙し、賊軍の汚名を着せられるのであるから、同じ運命をたどったと言えなくもない。そろそろ休憩したくなり、彰義隊の墓が見えるところにある店でしみじみとお茶を飲む。薩摩と彰義隊の攻防戦が繰り広げられた黒門の跡には、太田蜀山人の「一めんの花は碁盤の上野山 黒門前にかかるしら雲」という歌碑が立っているのみである。そういえばそろそろ花見のシーズンだ。今日も人出は多いが、来週再来週あたりはもっとすごいことになっているだろう。まっすぐ歩いて噴水の前に出る。かつてここには寛永寺根本中堂があった。その向こうに建つ東京国立博物館は寛永寺本坊の跡地である。すっかり公園となってしまった上野のお山だが、博物館の東隣にある寛永寺輪王殿には寛永寺本坊の表門が位置を変えて残されている。傷だらけとなった黒塗りの門には、砲撃によるものか、こぶし大の大穴が開き、壮絶な戦いの跡を残している。

寛永寺根本中堂・本坊跡
寛永寺根本中堂・本坊跡
寛永寺本坊表門
寛永寺本坊表門

 博物館の裏手には4代将軍・徳川家綱の廟である厳有院殿霊廟と5代将軍・徳川綱吉の廟である常憲院殿霊廟の勅額門が残されている。寛永寺は徳川家の祈願寺であり、菩提寺の芝増上寺とともに代々の将軍が葬られた徳川の聖地である。現在の寛永寺根本中堂は、かつて子院の大慈院があった場所にあり、その建物は川越喜多院の薬師堂(1638(寛永15)年建築)を移したものである。根本中堂の前には上野戦争を描いた「東台大戦争図」という錦絵のパネルが展示されており、激戦の様子が描かれている。遠くから飛んできて爆発しているのはアームストロング砲の砲弾であろうか。なお、この場所にあった大慈院は鳥羽・伏見の戦いに敗れた徳川慶喜が一時謹慎していたお寺である。

寛永寺根本中堂
寛永寺根本中堂
東台大戦争図(清水堂や黒門が見える。)
東台大戦争図
(清水堂や黒門が見える。)

 さらに足をのばして徳川慶喜が葬られている谷中墓地へ。鳥羽・伏見の戦いに敗れると江戸に逃げ帰り、あっさりと恭順の意思を示して謹慎、江戸城を明渡して水戸に退散。戊辰戦争における徳川慶喜の行動を以上のように記すと、あまりにも弱腰で臆病な対応だったように見えてしまう。しかし、仮に慶喜が新政府に本気で逆らっていたとすれば、日本を分裂しての大戦争が起きていたかもしれず、さらに欧米列強の介入をも引き起こしていたかもしれない。実際にフランスは慶喜に戦うことを強く勧めていたのであり、そうなればイギリスがバックにつく新政府との代理戦争になってしまっただろう。リンカーンやビスマルクやカヴールが戦いに勝つことで国を統一したのに対し、慶喜は戦いに敗れることで国を統一したとも言える。慶喜の大局を見た、合理的な行動が明治維新を成立させた大きな要因になったことは間違いない。しかし、慶喜がそう確信していたとしても、二百年以上続いた幕府を捨てて新政府に降るということに一片のわだかまりがあったことも確かであると思う。彰義隊は慶喜が苦渋のうちに押さえ込んだそうした心情の体現であったということもできようか。

 とかいうことを考えながら慶喜の墓を探すが、谷中墓地は複雑に道が入り組んでどこにあるのかよく分からない。うろうろ探すうちにようやく葵の紋をつけた大きな石塔を見つけた。ああ、これだこれだと思ってお参りすると、後ろからとんとんと肩を叩かれた。振り向くと歯の抜けたおじいさんが立っていて「これはね、津山藩松平家のお墓。慶喜公はあっちだよ」。周囲を鉄柵に囲まれた慶喜公のお墓は中くらいの石を低く積んだ独特の形状のものだった。この鉄柵の中にあるのは慶喜公家代々の墓地であり、周囲には勝海舟の養子となった慶喜十男の勝精伯爵など、縁戚の方々のお墓もあるとそのおじいさんに教わる。

 おじいさんにお礼を述べ、天王寺の五重塔跡を通って日暮里駅に向かう。京成線で町屋駅まで行き、都電荒川線に乗り換える。相澤は都電に乗るのも初めてだったらしく、しきりに感心している。終点の三ノ輪橋で降りて、歩くことしばし、円通寺が今日のツアーの終点である。円通寺は彰義隊の供養を行った縁により、彰義隊の墓地をつくることを特別に許されたお寺であり、激戦の舞台となった旧寛永寺黒門もここに移築されている。砲弾の穴が無数に空いた黒門を目にして相澤は少なからず衝撃を受けたようだった。黒門は冠木門に格子戸がはまったような形をしており、門というよりは「柵」とでも言ったほうがいいような代物である。「これを守れと言われても難しいものがありますね…」と相澤は言う。彰義隊の墓はフェンスに囲まれたこの黒門の内側にある。鍵がかかっていて墓地には入れないが、相澤はフェンスの外で熱心にお参りしていた。新政府軍の靖国神社に比べれば慎ましやかなこの墓地の地下に、今も江戸幕府に殉じた人々が眠っている。

 ちなみに、帰り道の居酒屋で、すっかり彰義隊びいきになってしまったらしい相澤はこんなことを言っていた。

 「彰義隊が負けたのはアームストロング砲のせいじゃありません! 会津藩に化けた新政府軍がひそかに上野に入り込んで、アームストロング砲の合図とともに寝返ってかく乱を図ったんだ! だいたいあんな遠くからアームストロング砲は命中しないし、大村益次郎も富士見櫓からじゃ指揮はとれない! そういう作戦だったんだ、最初から!」

 まあ、そういう説もあるけどね、と苦笑しながら、私は刺身を一切れつまんで、口の中に放り込んだ。

徳川慶喜墓(葵の紋の間、奥に見える。)
徳川慶喜墓
(葵の紋の間、奥に見える。)
円通寺にある旧寛永寺黒門
円通寺にある旧寛永寺黒門

【完】

 彰義隊とは義を彰かにすること。彰かにするために身を捧げ、幕末に描きつづけた将軍家のあるべき姿を貪欲に追い求めた男の信念には言葉もありません。既に自らの背後に将軍の姿はなく、将軍家の聖地を守るために黒門での激戦に身を投じ、数では圧倒的に不利が予想される中で刀を握り締め続けた信念には頭も上がりません。なので彰義隊が好きなのです。(相澤談)

(↑本人のたっての希望なので、載せました。)

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