YAGOPIN雑録 この町を歩く 旧寛永寺黒門
 
 ● 彰義隊史跡めぐり
三田周辺
 

 職場の後輩の相澤くんから、突然、次のようなメールが届いた。

 「大村益次郎と彰義隊決戦の跡地 見学ツアー、計画してください。ちょっと関東に居る間に彰義隊の知識を深めようと・・・。」

 相変わらずわけのわかんないことを言い出すやつだと思いつつも、こういう風にテーマを決めて東京を歩くのも面白いかもしれないと思い直し、さくさくっと行程案を作って、送り返す。決行は2005(平成17)年3月19日に決まった。

 午前9時30分、地下鉄南北線の麻布十番駅を降りると、相澤は、「原田佐之助♪原田佐之助♪」とやや興奮気味の様子である。なんでも永倉新八とともに新撰組を離れ、のち、彰義隊とともに上野で新政府軍と戦った原田佐之助が彼のお気に入りらしく、今回のツアーもそのために思いついたのだそうだ。原田佐之助は「切腹の作法も知らぬ下郎」と罵られて「それなら見せてやる」とほんとに腹を切って死にかけたり、二言目には「斬れ、斬れ」と叫んでいたと言われるなど、かなり直情径行型の人だったらしく、その点、気の短めな相澤と言われてみれば互いに相通ずるところがある。なるほどと思いながら古川にかかる二の橋を渡り、日向坂を上る。左手に三田会議所とオーストラリア大使館が並び、その隣には綱町三井倶楽部。右手には風格ある旧逓信省簡易保険局(現・簡易保険事務センター)の庁舎が建っている。綱町三井倶楽部は三井グループの迎賓館で、ジョサイア=コンドル設計の洋館が有名だが、その敷地の片隅には大名屋敷の長屋が残されているのも見逃せない。綱町三井倶楽部の敷地の南半分は会津藩保科家の中屋敷跡、北半分は佐土原藩島津家の上屋敷跡であり、この長屋は佐土原藩上屋敷の一部にあたる。

 ここで少し幕末史をひもといてみる。京都・二条城で徳川慶喜が諸大名に大政奉還について問うたのが1867年11月8日(慶応3年10月13日。以下括弧内は旧暦)。その2日後の11月10日(10月15日)には大政奉還の勅許が降りた。突然、大政を奉還しても、朝廷はどうすることもできず、結局は徳川家に政権をゆだねるしかない、というのが慶喜らの読みである。1868年1月3日(慶応3年12月9日)には、王政復古の大号令により新政府が成立したが、しかし、その後も徳川家を新政府に参画させるべきか否かをめぐって議論が続く。情勢は次第に旧幕府側に有利な方向へと向かっていった。

 こうした状況下で、西郷隆盛らは、旧幕府側を挑発して戦争を起こし、武力によって完全に幕府の息の根を止めることを画策した。この頃から江戸城下で強盗や放火などの騒ぎが相次ぎ、1868年1月17日(慶応3年12月23日)には、江戸城二の丸御殿も不審火で炎上した。江戸を警備していた庄内藩はこうした事件の背後に薩摩藩の関与があることを突き止め、1月19日(12月25日)に江戸・三田にある薩摩藩及びその支藩である佐土原藩の屋敷を焼き討ちする。焼き討ちの報は23日(29日)に大坂城にいた徳川慶喜のもとに届き、もはや薩摩との戦争は避けられないと判断した慶喜は、1868年1月25日(明治元年1月1日)、「討薩の表」を発した。「戊辰戦争」の始まりである。

 戊辰戦争の引き金となった焼き討ち事件、その場面のひとつとなったと思われるのが、この佐土原藩邸である。唯一の遺構であるこの長屋は、焼き討ちでも燃え残ったものであろうか。相澤は興味深げに長屋を見、そのまま会員以外立入禁止の三井倶楽部に入っていきそうになるので、慌てて引き戻す。綱の手引坂を下って桜田通りを横断すると、こちらも焼き討ちの対象になったと思われる、かつての薩摩藩邸の敷地に入る。遺構は何も残っていないが、高々とそびえるNEC本社ビルの北端に「薩摩屋敷跡」の石碑が植え込みに埋もれるように立っている。

佐土原藩上屋敷長屋 薩摩屋敷跡
佐土原藩上屋敷長屋 薩摩屋敷跡

 さて、「討薩の表」を掲げた旧幕府軍は、鳥羽街道及び伏見街道の二手に分かれて京都へ向け進軍し、1868年1月27日(明治元年1月3日)、鳥羽及び伏見において新政府軍と交戦する。いわゆる鳥羽・伏見の戦いである。その結果、旧幕府軍は敗退し、徳川慶喜は大坂から軍艦・開陽丸で江戸へと脱出する。1月31日(1月7日)、新政府より逆に徳川慶喜追討令が出され、3月9日(2月15日)には有栖川宮熾仁親王を東征大総督とし、西郷隆盛を参謀とする追討軍が東海道を進んでいく。

 東海道を下ってくると江戸の入り口付近に位置する三田一帯は、薩摩藩関係の屋敷が多かったところで、東海道を渡ったところには物資を運び入れるための蔵屋敷があった。蔵屋敷跡の裏手には現在JR東海道線が通っているが、これは明治になって海岸を埋立てて通した線路で、江戸時代、蔵屋敷はすぐ海に通じていたのである。4月5日(3月13日)、江戸に着いた西郷隆盛を待ち受けていたのは、旧幕府陸軍総裁・勝海舟であった。翌4月6日(3月14日)、西郷と勝は、この蔵屋敷において、歴史的な会談をすることになる。それは江戸100万市民を戦火から守るための江戸城無血開城に向けた話し合いだった。

 徳川慶喜は既に江戸城を退去しており、上野寛永寺大慈院で謹慎していた。江戸城総攻撃予定日は会談の翌日、4月7日(3月15日)と決まっていたが、この秘密会談によって中止となり、江戸城は平和のうちに明渡されることとなった。西郷とは旧知の仲であった勝は「西郷はそんなことをする男ではないと始めから分かっていたよ」と後に語っている。東海道を走る車の音を背にして、「江戸開城西郷南洲勝海舟会見之地碑」と彫られた石碑をしばらく眺めていた相澤と私は、朝から何も食べていなかったことに気付き、三田駅前の飲食店街へと足を向けることにした。

西郷南洲・勝海舟会見之地
西郷南洲・勝海舟会見之地
 
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