YAGOPIN雑録

この町を歩く

旧寛永寺黒門

● 彰義隊史跡めぐり・2

江戸城周辺

 地下鉄三田駅から都営三田線に乗り、5つ目の大手町駅で下車する。JFEビル横の出口を出ると、パレスホテルの向こうに江戸城大手門が見えた。高麗門・渡櫓門で桝形を構成する立派な門だが、残念ながら現在の門は戦災で焼失後の1968(昭和43)年に再建されたものである。大御所や世子の居所だった江戸城西の丸は、現在皇居となっていて立入りできないが、本丸などは皇居東御苑として整備されていて、月曜と金曜以外は入ることができる。大手門から三の丸を抜けて二の丸へ。百人番所や同心番所などいくつかの建造物は江戸時代から残っているが、そのほかは四角い石が隙間なく積まれた大きな石垣が残るばかりである。「江戸城の建物がすべて残っていれば、圧巻だったでしょうね~」と相澤が言う。

 二の丸から本丸に続く汐見坂の途中で振り返ると、江戸城の周囲は高層ビルに遠巻きに包囲されてしまっているかのようだった。先ほどの石垣に比べると粗めの積み方になっている石垣を見ながら本丸に上がると、そこにあったはずの御殿はまったく消えうせ、広々とした広場があるばかりとなっている。江戸城本丸御殿は1863(文久3)年に炎上したあと再建されず、二の丸御殿も先に述べたように不審火で全焼しているため、江戸無血開城の段階では、西の丸にしか御殿はなかった。したがって、新政府が入ったのも江戸城西の丸であり、その後、現在に至るまで西の丸が皇居として使用されている。ただ、明治初年には本丸跡地に太政官の庁舎を造営する計画が存在し、それが仮に実現していれば、西の丸は皇居、本丸は官庁街となっていた可能性もあったわけである。

 大奥跡などという表示を眺めつつ、相澤と私は本丸南端を目指す。そこには明暦の大火後の1659(万治2)年に建てられた富士見櫓が今も残っている。江戸城天守閣は明暦の大火で焼失した後、再建されなかったため、唯一の三重櫓である富士見櫓が天守閣の役割を果たしていたという。歴代の将軍が両国の花火を眺めたのもこの富士見櫓からだった。

 ところで、江戸城無血開城に先立つ1868年3月17日(明治元年2月23日)、朝敵とされた徳川慶喜を守ろうと、旧一橋家の床机衆と呼ばれた家臣が中心となって「彰義隊(「床机」に掛けたものであろう。)」を結成していた。江戸城開城の5月2日(4月11日)、徳川慶喜は謹慎していた上野寛永寺大慈院から水戸の弘道館に退去するが、徹底抗戦を求める彰義隊は、寛永寺座主・輪王寺宮公現法親王(りんのうじみやくげん(こうげん)ほっしんのう)を擁立し、徳川家代々の社稷を守ることを名目に寛永寺に立て篭もった。寛永寺は門跡寺院として、代々、皇族が座主を務めることになっており、公現法親王も伏見宮家の血筋を引く皇族の一員である。

 西郷隆盛は、無血開城を推進した経緯もあって、彰義隊についてもなんとか穏便に解決したいと考えており、勝海舟を通じて彰義隊の解散を呼びかけたが、うまくいかなかった。事態を憂慮した新政府は、軍防事務局判事大村益二郎を江戸に派遣して、軍事的な打開を図ろうとする。そして、7月3日(5月14日)、大村益次郎は東征大総督の名において彰義隊討伐の布告を出し、7月4日(5月15日)、ついに上野戦争が始まった。司令官の役割を果たす大村益次郎が指揮をとったのも、この江戸城富士見櫓からである。

 浅野内匠頭が吉良上野介に切りかかった松の廊下跡、現存する富士見多聞の建物を見つつ、天守台に向かう。家康時代の天守閣、秀忠時代の天守閣、家光時代の天守閣はそれぞれ異なっており、家康時代の天守閣はもう少し南側にあった。家光時代の天守閣の高さは57mもあったそうだ。相澤は、「あんな小さな富士見櫓でこんな巨大な天守閣の代用ができたとは思えないし、大村益次郎だって富士見櫓からじゃ、ちゃんと指揮がとれなかったんじゃないのー」などと言う。

江戸城富士見櫓
江戸城富士見櫓
江戸城天守台
江戸城天守台

 天守台の裏手にある北桔橋門から皇居東御苑を出て、北の丸公園に入る。公園の片隅に建つ国立近代美術館工芸館は、旧陸軍近衛師団司令部の建物を利用したもので、1910(明治43)年に建てられた重要文化財である。その敷地内に北白川宮能久親王の騎馬像が立っている。北白川宮能久親王は、彰義隊に擁立された輪王寺宮公現法親王の後の呼び名である。上野戦争後は、奥羽越列藩同盟にも与し、ずいぶんと旧幕府側に肩入れした輪王寺宮だったが、後に許されて、1872(明治5)年には北白川宮家を相続し、やがて陸軍中将・近衛師団長となった。そして、日清戦争に従軍し、1895(明治28)年、病気のため台南で波乱の生涯を閉じている。

 日本武道館の前を通って、田安門から北の丸公園を出る。この付近は銅像の多いところで、元内務大臣・品川弥二郎像、元陸軍元帥・大山巌像が濠端にひっそりと立っているが、そうした銅像よりもはるかに高々とそびえ立っているのが、靖国神社境内にある大村益次郎の銅像である。あまりに高すぎて「火吹きだるま」と仇名されたその容貌も下からではよく分からないが、この銅像は、上野戦争を指揮していたときの姿と言われ、方角も上野の方向を向いているのが分かる。もともと靖国神社は戊辰戦争の戦没者を祀る「東京招魂社」として創立されており、その創立に尽力したひとりが大村益次郎であったことから、この場所に銅像が立てられることになったのだそうだ。もちろん靖国神社に祀られている霊の中には上野戦争で戦死した人々も含まれていることから、今回のツアーの趣旨に従ってお参りしてくる。

 時刻は12時半になった。次はいよいよ上野戦争の舞台へと向かう。

北白川宮能久親王像
北白川宮能久親王像
鳩に囲まれた大村益次郎像
鳩に囲まれた大村益次郎像

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